多民族国家大和

土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。

2009年11月11日の記事一覧
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弥生時代の鉄器ルート


一般的に弥生時代の鉄器は北部九州に前期に持ち込まれ、後期以降に西日本各地に持ち込まれたとされていますが、高知県土佐市新居の上ノ村遺跡からは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構から鉄製品約170点が出土しており、遺構の周辺も合わせると計約250点となる。砥石も出土しており鉄製品の加工をしていたと見られ、この事例は従来の弥生感を覆している。

日本海側の妻木晩田遺跡からは200点以上の鉄器が出土していますが、これは弥生後期のものであり、従来の弥生感の範疇に入るものです。

同じ日本海側の荒神谷遺跡『ウィキペディア(Wikipedia)』から大量の銅剣が出土しておりますが、弥生時代中期後半に製作されたものであり、それと同じ時期に太平洋側の土佐では鉄器が既に製作されていたわけであります。

鉄器生産を行っただろうとされる弥生の鍛冶遺構をまとめてみます。(古い順)

重留遺跡(福岡県)弥生時代中期~後期?
3基の炉跡

上ノ村遺跡(高知県)弥生時代中期末(1世紀初め)
鉄製品約250点。砥石(といし)も見つかっていることから鉄製品の加工拠点だった可能性が高い。

垣内遺跡(兵庫県)弥生時代後期
鉄片など計75点。鍛冶(かじ)工房跡計10カ所

庄遺跡(徳島県)弥生時代後期
鉄の残片など約50点や鉄やじり2点
鉄器の形を整えたり、研いだりするために使った鉄床石(かなとこいし)兼砥石(といし)十数点


現段階では上ノ村遺跡からは炉が出土していないため、断言はされてませんが、高知県の鉄器製作は福岡と同時期に始まっており、居徳遺跡の戦傷人骨を含めると(上ノ村遺跡は居徳遺跡のすぐ南)やはり少なくとも縄文晩期から北部九州と同じスピードでユーラシアの文明がもたらされた可能性が高いのです。

なぜそういうことが起こるかというと、弥生時代の早い段階で邪馬台国と北の一大卒という枠組みが出来始めていたということです。なぜそうなのかというと高知県中心部の子宮祭祀型の地形が、様々な人種と文明を引き寄せていたということになります。



しかも高知県中心部は銅矛文化圏と銅鐸文化圏の交わる境界線でもあり東日本と西日本の文明をつなぐ首都機能を持った都市であったことが推測できます。なぜなら邪馬台国の根本原理は多民族・多宗教の共和制連合国家であり、弥生時代後期の銅矛・銅鐸文化圏が交わらないところはその必要条件を満たさないわけであり、その条件を満たすのが唯一、四国の中心部であるのです。


下記に居徳遺跡・上ノ村遺跡・田村遺跡の連続性を示します。

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居徳遺跡(縄文晩期)→国内最古の戦傷人骨→権力闘争始まる

上ノ村遺跡(弥生時代中期末)→鉄製品約250点
→弥生文化の一部が北部九州よりも早い段階で土佐に伝播していたことを考えると鉄器伝播ももっと遡る可能性がある。権力闘争が一段落し、鉄器を媒介とした王権が発生し始めた可能性がある。

田村遺跡(弥生後期)→約850棟の建物跡・半径6ー7kmが同じ文化圏にある。周辺部の遺跡が密接に関わっており王権ができるとともに自由市民が発生した痕跡がある。
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古代ローマと土佐

古代ローマが実質的に帝政に移行したのは、285年のことです。これ以降専制君主制が始まり、ローマ帝国と呼ばれるものになっていきました。

同じ時期に日本で何が起こっていたかというと『卑弥呼の死』→『男王立ったが世乱れる』→『台与の擁立』です。

古代ローマ『ウィキペディア(Wikipedia)』の帝国という意味には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあったらしく、土佐人の内奥の哲学と激しく一致するのです。このブログの題名ともなっています。

また、これは邪馬台国の連合国家形態と同じであり、ユーラシアの東の国・ジパングで共和制の女王卑弥呼が亡くなったことと、ユーラシアの西の地中海で共和制が終焉し、帝政が始まったことは非常に大きなメタファーが横たわっていると思うのです。


邪馬台国と倭国の主導権を争った南の狗奴国はおそらく帝政を選択しており、強大な軍事国家であったと思います。

邪馬台国が魏との貿易も行う国際貿易体制連合国家であったのに反して、狗奴国は帝政ローマの思想や中国・呉とも結びつく大まかに鎖国主義の帝政国家であったと思われます。

日本神話に記される国譲りはおそらく共和制から帝政への移行であり、それが軍事力をともなって行使されなかったはずはなく、しかし、帝政は共和制時代の文化をそのまま継承したという痕跡が土佐には残っているのです。

この構図というのは壬申の乱時代にも繰り返されており、共和制・天智天皇朝→帝政・天武天皇朝の国譲りでも土佐は草薙の剣とも思われる三種の神器を献上させられているのです。

詳しくは→刀と骨(Lemurian resonance)を参照

このように日本史とは、共和制と帝政のせめぎあいの歴史であり、幕末に坂本龍馬が大政奉還を実現し、明治期に土佐から自由民権運動が展開され、共和制が目指されたのは単なる偶然ではありません。

戦国期の土佐の武将・長宗我部氏の兵農一致の『一領具足』は、1兵卒が軍略会議に参加し発言していた日本で唯一の例ですので、土佐の共和制のルーツは、はるか古代にまで遡ることができるのです。

この文化的側面の考察と田村遺跡・居徳遺跡発掘の状況、神社史などの考察を合わせますと、土佐邪馬台国共和制というものがはっきりとした形で見えてくるのです。

自由民権運動の時に激震地にさえならなかった畿内が共和制邪馬台国の中心であるはずもなく、ましてや初期大和王権の発生地であるわけもないのです。

大和という言葉は、様々な民族が大同団結しひとつのクニ(六合=天・地・東・西・南・北)を造ったという哲学であるので、明らかにこれはローマの共和制と同じなのです。

アテナイの市民がアゴラに集まって開いていた民会『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じ文化が土佐には残っています。『おきゃく』という文化ですが、老若男女が一同に会し、政治や経済のことなどについて酒を飲みながら熱く語ります。

これは日本の他地域には見られない非常に珍しい文化で、酒を飲んで顔を真っ赤にしながら政治のことについてじいさん・ばあさん・大人・子供が議論し合うのは、やはり日本離れしていると思います。

この民会の中から『はちきん』と呼ばれる男勝りな女性が生み出されてくるのです。結局、これが楠瀬喜多(すのせ きた)のような政治的男勝り女性を生み出していくわけですが、これが神功皇后の系譜とも言って良いと思います。

つまり神功皇后がなぜあれほどまでに政治的で負けん気が強いのか?これについて書かれたものはあまり見ません。日本書紀が捏造であったとしても神功皇后の性格は当時の女王の性格を投影している可能性が高いと言えます。それが何から生まれるかと言えば、単に生まれつきなどではなく、幼少の頃から民会のような場所で政治談義にふけっていた可能性もあるのです。

民衆を統率して朝鮮半島に出兵するのですから、それなりの軍事的戦略・政治的統率力・民衆を魅了する教養がなければならないと思います。

そういう女性が生まれる文化的素地が未だに土佐には残っているのです。


 


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