この4つが今回、発掘された建物を邪馬台国のものに仕立てあげたい人たちの根拠ですが、あまりにもお粗末過ぎます。
①に関しては、縄文時代から日本では心御柱の建築はありましたが、纒向で発見された建物の中央の柱跡はそういう思想を全く感じられない建物です。ゆえに祭祀の建物である可能性は低く、単なる食糧貯蔵庫であった可能性のほうが高いです。わざわざ出雲の建物を持ち出すまでもないことです。
②に関しては、それほど大きくはない建物がいくつにも区切られているからといって、それが卑弥呼の居所に間違いないとするならば、一体、卑弥呼は日本に何人いたんでしょうか?コントのネタではないのか(笑)
③に関しては、卑弥呼が亡くなった後は男王が立って、再び倭国大乱になりましたし、卑弥呼存命中も狗奴国と戦争状態にありましたから、環濠がないことを卑弥呼王権確立の根拠にするのは狂気地味ていると思います。
④に関しては、古代の太陽信仰を持ち出すならば、最も神聖視されていたのは、冬至の日に太陽が昇ってくる辰巳の方角です。この冬至の日を境に日が高くなり始めるので、太陽神復活の方角とされました。柚子は太陽を表しましたから、冬至の日に日本人は柚子風呂に入ります。柚子の発祥は土佐ですし、田村遺跡群ー土佐神社ー七ツ淵は辰巳ラインで一直線に並んでいます。
しかも、纒向遺跡は大きく見積もっても半径2kmほど文化圏です。それに引き換え高知県田村遺跡群周辺は少なくとも半径6kmの弥生大文化圏です。2重環濠も持ち、既に850棟も出土した田村遺跡が同時代に土佐に存在するのに、たった半径2kmしかない奈良の山奥の地に一体、誰が王権を作るというのでしょうか?あまりにも馬鹿げています。
少なくとも、2つが同時代に並存しているわけですから、朝鮮半島に近い土佐が政治的に進んでいた可能性は高いでしょう。権力闘争も鉄器作製も土佐は北九州と同程度か、それよりも早い段階で推移していたわけですから。
纒向=邪馬台国説はあまりにも狂気地味ているし、稚拙過ぎると思います。
この鏡川の最上流部に七ツ淵(七ツ淵神社もあり)という地があります。1週間を7日(七曜)にしたのはシュメール人といわれます。七曜に関しても 土から生まれ土に還る 記事で密教伝播以前に日本に入ってきていた可能性が高いと指摘しました。
シュメール人は龍が春に出てきて秋に入っていくと考えていました。どこから出てきてどこへ還っていくかというと”淵”です。土佐には七ツ淵神社以外にも深淵神社(玄松子さん)という延喜式内社もあります。深淵水夜禮花命を祀っているのは全国で唯一、この神社だけです。この他にも地の底まで続くような地割れが史跡となっているところもあります。
この七ツ淵付近を源流とする鏡川は龍神の川と言われており、金属器を投げ入れると祟りがあると信じられていて、実際にばちが当たった人もいます。この鏡川が鴻ノ森というピラミッド型の山を経由し、南の内湾・浦戸湾に注いでいるのです。
その途中に斉明天皇崩御地の朝倉があります。この朝倉神社の祭神は天津羽羽神、つまりは龍神です。それで、最終地点・潮江(牛尾江)に獅子が待ち構えているのです。
バビロン『ウィキペディア(Wikipedia)』の主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られていました。
また、この潮江山頂の巨石からは金星が非常に美しく見え、イシュタルと雄牛もまた潮江の巨石でつながるのである。なぜ菅原道真の長男・菅原高視『ウィキペディア(Wikipedia)』が土佐の国衙とは、ほど遠い潮江の地に住み、そこで道真の遺物を受け取ったかが上記の理由をもって説明できる。
上古、私たち日本人の文明は非常にオリエントの文明と直結したものでありましたが、鎌倉・室町・戦国期を通じて、特に江戸時代を通じて余分なものはそぎ落とされ、明治期の皇国史観で完全にシャットアウトされたのだと感じます。
これからは、皇国史観を拝し、世界の民族と宗教が融合した多民族国家としての大和を私たちのアイデンティティーとして取り戻していく必要があるでしょう。