土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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昨日、秦氏の20進法 (Lemurian resonance)にも書きましたが、土佐国南西部に秦王国を作った秦氏たちは20進法を用いるマヤ文明のルーツとなった人たち。
マヤの聖数は20ともうひとつ13があります。マヤの暦のひとつであるツォルキン『ウィキペディア(Wikipedia)』は、13×20=260日で一年となります。
古代土佐には都左国と波多国の2つの国がありました。
この都左国と波多国を数字に直しますと
十三(トサ)×二十(ハタ)となります。これが大和であり邪馬台国であると以前からお伝えしています。
また、土佐には”はちきん”と呼ばれる言葉があります。これは男勝りの女性のことを意味し、ポジティブなイメージで捉えられる言葉です。八面と安曇 (Aquarius 安曇)で八面大王は八人の巫女のことで卑弥呼のことであると書きました。
土佐には三目八面(さんめやづら、みつめはちめん) 『ウィキペディア(Wikipedia)』があり、高知県物部村のいざなぎ流 『ウィキペディア(Wikipedia)』神事・日月祭にも八面王は登場します。八面王(やつらおう)神社跡 (四国のやまなみ)もあります。とも書きました。
故に、”はちきん”とは、八人の巫女を讃えた言葉でもあると考えられます。また、マヤの1日を表す言葉はキン(KIN)です。このキンは元々、太陽を表していたようです。このマヤのKINを使うと不思議と”はちきん”や邪馬台国の謎が解けていきます。
つまり”はちきん”とは八人の太陽であり、剣山から発掘されアメリカ軍に押収されている全身入れ墨の八人の太陽の姫巫女たちのことなのです。
これに対して土佐の日本人離れした変骨者は”いごっそう『ウィキペディア(Wikipedia)』”と呼ばれます。男性を指す言葉、そして彦の響きが隠れていること。一五十とも書けることから、五と深い関わりがあり、日子とも関わりがあると思います。つまり五男三女の五男であり、五は男を表します。土佐には五男筆頭延喜式内社・天忍穂耳の天忍穂別神社もありますし、若一王子神社が異様に多いです。
彦(五)+媛(八)で13(土佐)ということになります。しかし、これは土佐に限ったことではなく、北九州にも英彦山と八面山のセットがあります。青森県にも十三湊(とさみなと)があるように土佐は高知県の固有名詞ではなく、全国的に使用された言葉であると思います。
昨日、纒向遺跡での新たな発見の特集をクローズアップ現代で放映していたのですが、めちゃくちゃな暴論が公共の電波を通して流れていましたので、訂正しておきたいと思います。
①本殿中央部に柱が建っている→出雲に同じものがある→部屋がいくつもに分けられ卑弥呼が祭祀を行っていた可能性が高い。
②卑弥呼は誰にも会わず、弟が世話をしていた(魏志倭人伝)→それを彷彿させる部屋のつくり→卑弥呼の居所に間違いがない。
③纒向に防衛機能(環濠)がない→この時代に地域がひとつになった王権が確立されたため。
④ほとんどの建物が天子南面の中国思想で建築されているにも関わらず発掘された建物は東に向いている→日本古来の太陽信仰に違いない(ひのみこの思想)
この4つが今回、発掘された建物を邪馬台国のものに仕立てあげたい人たちの根拠ですが、あまりにもお粗末過ぎます。
①に関しては、縄文時代から日本では心御柱の建築はありましたが、纒向で発見された建物の中央の柱跡はそういう思想を全く感じられない建物です。ゆえに祭祀の建物である可能性は低く、単なる食糧貯蔵庫であった可能性のほうが高いです。わざわざ出雲の建物を持ち出すまでもないことです。
②に関しては、それほど大きくはない建物がいくつにも区切られているからといって、それが卑弥呼の居所に間違いないとするならば、一体、卑弥呼は日本に何人いたんでしょうか?コントのネタではないのか(笑)
③に関しては、卑弥呼が亡くなった後は男王が立って、再び倭国大乱になりましたし、卑弥呼存命中も狗奴国と戦争状態にありましたから、環濠がないことを卑弥呼王権確立の根拠にするのは狂気地味ていると思います。
④に関しては、古代の太陽信仰を持ち出すならば、最も神聖視されていたのは、冬至の日に太陽が昇ってくる辰巳の方角です。この冬至の日を境に日が高くなり始めるので、太陽神復活の方角とされました。柚子は太陽を表しましたから、冬至の日に日本人は柚子風呂に入ります。柚子の発祥は土佐ですし、田村遺跡群ー土佐神社ー七ツ淵は辰巳ラインで一直線に並んでいます。
しかも、纒向遺跡は大きく見積もっても半径2kmほど文化圏です。それに引き換え高知県田村遺跡群周辺は少なくとも半径6kmの弥生大文化圏です。2重環濠も持ち、既に850棟も出土した田村遺跡が同時代に土佐に存在するのに、たった半径2kmしかない奈良の山奥の地に一体、誰が王権を作るというのでしょうか?あまりにも馬鹿げています。
少なくとも、2つが同時代に並存しているわけですから、朝鮮半島に近い土佐が政治的に進んでいた可能性は高いでしょう。権力闘争も鉄器作製も土佐は北九州と同程度か、それよりも早い段階で推移していたわけですから。
纒向=邪馬台国説はあまりにも狂気地味ているし、稚拙過ぎると思います。
土から生まれ土に還る 記事で土佐における四神の配置とバビロニアのことについてざっと書きましたが、特に西の日(火)の神付近とバビロニアに関連することについて、詳しく。
土佐の四神のうち西の日(火)の神は、巨大な獅子岩をその原初信仰としており、これが後に牛頭天王に変わり、潮江天満宮(日本初の天満宮)へと変遷していきました。
詳しくは→天満宮と北極星(Lemurian resonance)を参照
西の日(火)の神付近は、北の台地から西側のピラミッド型の山をぐるっと回って龍馬も遊んだ鏡川という川が内湾に注ぎ込む河口になっています。
この鏡川の最上流部に七ツ淵(七ツ淵神社もあり)という地があります。1週間を7日(七曜)にしたのはシュメール人といわれます。七曜に関しても 土から生まれ土に還る 記事で密教伝播以前に日本に入ってきていた可能性が高いと指摘しました。
シュメール人は龍が春に出てきて秋に入っていくと考えていました。どこから出てきてどこへ還っていくかというと”淵”です。土佐には七ツ淵神社以外にも深淵神社(玄松子さん)という延喜式内社もあります。深淵水夜禮花命を祀っているのは全国で唯一、この神社だけです。この他にも地の底まで続くような地割れが史跡となっているところもあります。
この七ツ淵付近を源流とする鏡川は龍神の川と言われており、金属器を投げ入れると祟りがあると信じられていて、実際にばちが当たった人もいます。この鏡川が鴻ノ森というピラミッド型の山を経由し、南の内湾・浦戸湾に注いでいるのです。
その途中に斉明天皇崩御地の朝倉があります。この朝倉神社の祭神は天津羽羽神、つまりは龍神です。それで、最終地点・潮江(牛尾江)に獅子が待ち構えているのです。
バビロン『ウィキペディア(Wikipedia)』の主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られていました。
また、この潮江山頂の巨石からは金星が非常に美しく見え、イシュタルと雄牛もまた潮江の巨石でつながるのである。なぜ菅原道真の長男・菅原高視『ウィキペディア(Wikipedia)』が土佐の国衙とは、ほど遠い潮江の地に住み、そこで道真の遺物を受け取ったかが上記の理由をもって説明できる。
上古、私たち日本人の文明は非常にオリエントの文明と直結したものでありましたが、鎌倉・室町・戦国期を通じて、特に江戸時代を通じて余分なものはそぎ落とされ、明治期の皇国史観で完全にシャットアウトされたのだと感じます。
これからは、皇国史観を拝し、世界の民族と宗教が融合した多民族国家としての大和を私たちのアイデンティティーとして取り戻していく必要があるでしょう。
一般的に弥生時代の鉄器は北部九州に前期に持ち込まれ、後期以降に西日本各地に持ち込まれたとされていますが、高知県土佐市新居の上ノ村遺跡からは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構から鉄製品約170点が出土しており、遺構の周辺も合わせると計約250点となる。砥石も出土しており鉄製品の加工をしていたと見られ、この事例は従来の弥生感を覆している。
日本海側の妻木晩田遺跡からは200点以上の鉄器が出土していますが、これは弥生後期のものであり、従来の弥生感の範疇に入るものです。
同じ日本海側の荒神谷遺跡『ウィキペディア(Wikipedia)』から大量の銅剣が出土しておりますが、弥生時代中期後半に製作されたものであり、それと同じ時期に太平洋側の土佐では鉄器が既に製作されていたわけであります。
鉄器生産を行っただろうとされる弥生の鍛冶遺構をまとめてみます。(古い順)
重留遺跡(福岡県)弥生時代中期~後期?
3基の炉跡
上ノ村遺跡(高知県)弥生時代中期末(1世紀初め)
鉄製品約250点。砥石(といし)も見つかっていることから鉄製品の加工拠点だった可能性が高い。
垣内遺跡(兵庫県)弥生時代後期
鉄片など計75点。鍛冶(かじ)工房跡計10カ所
庄遺跡(徳島県)弥生時代後期
鉄の残片など約50点や鉄やじり2点
鉄器の形を整えたり、研いだりするために使った鉄床石(かなとこいし)兼砥石(といし)十数点
現段階では上ノ村遺跡からは炉が出土していないため、断言はされてませんが、高知県の鉄器製作は福岡と同時期に始まっており、居徳遺跡の戦傷人骨を含めると(上ノ村遺跡は居徳遺跡のすぐ南)やはり少なくとも縄文晩期から北部九州と同じスピードでユーラシアの文明がもたらされた可能性が高いのです。
なぜそういうことが起こるかというと、弥生時代の早い段階で邪馬台国と北の一大卒という枠組みが出来始めていたということです。なぜそうなのかというと高知県中心部の子宮祭祀型の地形が、様々な人種と文明を引き寄せていたということになります。
しかも高知県中心部は銅矛文化圏と銅鐸文化圏の交わる境界線でもあり東日本と西日本の文明をつなぐ首都機能を持った都市であったことが推測できます。なぜなら邪馬台国の根本原理は多民族・多宗教の共和制連合国家であり、弥生時代後期の銅矛・銅鐸文化圏が交わらないところはその必要条件を満たさないわけであり、その条件を満たすのが唯一、四国の中心部であるのです。
下記に居徳遺跡・上ノ村遺跡・田村遺跡の連続性を示します。
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居徳遺跡(縄文晩期)→国内最古の戦傷人骨→権力闘争始まる
↓
上ノ村遺跡(弥生時代中期末)→鉄製品約250点
→弥生文化の一部が北部九州よりも早い段階で土佐に伝播していたことを考えると鉄器伝播ももっと遡る可能性がある。権力闘争が一段落し、鉄器を媒介とした王権が発生し始めた可能性がある。
↓
田村遺跡(弥生後期)→約850棟の建物跡・半径6ー7kmが同じ文化圏にある。周辺部の遺跡が密接に関わっており王権ができるとともに自由市民が発生した痕跡がある。
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古代ローマが実質的に帝政に移行したのは、285年のことです。これ以降専制君主制が始まり、ローマ帝国と呼ばれるものになっていきました。
同じ時期に日本で何が起こっていたかというと『卑弥呼の死』→『男王立ったが世乱れる』→『台与の擁立』です。
古代ローマ『ウィキペディア(Wikipedia)』の帝国という意味には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあったらしく、土佐人の内奥の哲学と激しく一致するのです。このブログの題名ともなっています。
また、これは邪馬台国の連合国家形態と同じであり、ユーラシアの東の国・ジパングで共和制の女王卑弥呼が亡くなったことと、ユーラシアの西の地中海で共和制が終焉し、帝政が始まったことは非常に大きなメタファーが横たわっていると思うのです。
邪馬台国と倭国の主導権を争った南の狗奴国はおそらく帝政を選択しており、強大な軍事国家であったと思います。
邪馬台国が魏との貿易も行う国際貿易体制連合国家であったのに反して、狗奴国は帝政ローマの思想や中国・呉とも結びつく大まかに鎖国主義の帝政国家であったと思われます。
日本神話に記される国譲りはおそらく共和制から帝政への移行であり、それが軍事力をともなって行使されなかったはずはなく、しかし、帝政は共和制時代の文化をそのまま継承したという痕跡が土佐には残っているのです。
この構図というのは壬申の乱時代にも繰り返されており、共和制・天智天皇朝→帝政・天武天皇朝の国譲りでも土佐は草薙の剣とも思われる三種の神器を献上させられているのです。
詳しくは→刀と骨(Lemurian resonance)を参照
このように日本史とは、共和制と帝政のせめぎあいの歴史であり、幕末に坂本龍馬が大政奉還を実現し、明治期に土佐から自由民権運動が展開され、共和制が目指されたのは単なる偶然ではありません。
戦国期の土佐の武将・長宗我部氏の兵農一致の『一領具足』は、1兵卒が軍略会議に参加し発言していた日本で唯一の例ですので、土佐の共和制のルーツは、はるか古代にまで遡ることができるのです。
この文化的側面の考察と田村遺跡・居徳遺跡発掘の状況、神社史などの考察を合わせますと、土佐邪馬台国共和制というものがはっきりとした形で見えてくるのです。
自由民権運動の時に激震地にさえならなかった畿内が共和制邪馬台国の中心であるはずもなく、ましてや初期大和王権の発生地であるわけもないのです。
大和という言葉は、様々な民族が大同団結しひとつのクニ(六合=天・地・東・西・南・北)を造ったという哲学であるので、明らかにこれはローマの共和制と同じなのです。
アテナイの市民がアゴラに集まって開いていた民会『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じ文化が土佐には残っています。『おきゃく』という文化ですが、老若男女が一同に会し、政治や経済のことなどについて酒を飲みながら熱く語ります。
これは日本の他地域には見られない非常に珍しい文化で、酒を飲んで顔を真っ赤にしながら政治のことについてじいさん・ばあさん・大人・子供が議論し合うのは、やはり日本離れしていると思います。
この民会の中から『はちきん』と呼ばれる男勝りな女性が生み出されてくるのです。結局、これが楠瀬喜多(すのせ きた)のような政治的男勝り女性を生み出していくわけですが、これが神功皇后の系譜とも言って良いと思います。
つまり神功皇后がなぜあれほどまでに政治的で負けん気が強いのか?これについて書かれたものはあまり見ません。日本書紀が捏造であったとしても神功皇后の性格は当時の女王の性格を投影している可能性が高いと言えます。それが何から生まれるかと言えば、単に生まれつきなどではなく、幼少の頃から民会のような場所で政治談義にふけっていた可能性もあるのです。
民衆を統率して朝鮮半島に出兵するのですから、それなりの軍事的戦略・政治的統率力・民衆を魅了する教養がなければならないと思います。
そういう女性が生まれる文化的素地が未だに土佐には残っているのです。
私の最新の研究(?)から言いますと、古代の都は一時期、陰陽一対で運営されていたのではないかと考えています。
近つ飛鳥・遠つ飛鳥、近つ淡海・遠つ淡海などの言葉がその名残であり、近つ淡海を琵琶湖畔、遠つ淡海を土佐の古浦戸湾に設定すると、土佐の様々な不思議が急速に解決し始めるのです。
(本来、遠つ淡海はとうとうみとして浜名湖が設定されていますが)
土佐大津と近江大津は、子宮型祭祀、風神祭祀、三体妙見祭祀、タケル祭祀、祓戸信仰、小野氏つながり、アジスキタカヒコネつながり、食道楽つながり、天智天皇つながりなどで深い一致があります。
そしてその文明構造が最終的に京都に奪われた形になってクローズしているのも似ています。
律令・条里制の中央集権国家が完成される前は、おそらく子宮型祭祀・汽水域神聖視の天の川連合国体国家が選択されており、膨大な帆船をつなぎとめておく港が都のすぐ近くにあったようです。
風神と不二(過去記事)でも書きましたように、帆船をつなぎとめておく港は内湾であり、風待ちをして一気に帆船を進ませる地形がなければ都としては機能しなかったようです。
そのために風神が祀られていて龍田大社の級長戸辺命が国御柱神とされるのはこういう理由からではないかと思います。
しかし、龍田大社の創建は675年であり、それ以前に風神を祀る文化があったことは明白であり、風神祭祀をこの龍田大社起源にするのは、明らかな無理があるということになります。しかも龍田大社付近には古代内湾の痕跡もそれに伴う風待ちの文化の継承も見当たらないですし。
詳しくは刀と骨(Lemurian resonance)を参照
日本神話の神世七代『ウィキペディア(Wikipedia)』は、おそらくは七曜であり、一般的に曜日『ウィキペディア(Wikipedia)』が密教によってもたらされたというのは間違いであると思います。
おそらくは初期大和王権つまり邪馬台国にはミトラが入ってきており、第六天の土(泥)が神聖視された痕跡があります。この信仰は日本においては古墳時代を通じて埴輪として表現されましたが、その後急速に衰えていきます。(つまり古代バビロニアの思想がなんらかの宗教の形をとって紀元前後には既に入ってきていたということになります)
イスラム教ではアズラエルがアダムを創ったともされ、アズラエルは土の神なので、神世七代とは恐ろしく一致します。キリスト教では後の異端排斥で死を連想させるもの(死ねば土に還る)を全て追放しましたので、土の思想が失われ、土=悪=サタンとして定着しました。(ここにイスラム教とキリスト教の対立の根源があるでしょう)
しかし、古代ローマのサトゥルナリア祭で大地(土)の神サトゥルヌスを祝っていたように、土=悪=サタンの考え方は、キリスト教が求心力を強めていく中で醸成されていった社会通念であったことがわかります。
神世七代の時代こそ、まさに初期大和王権の時代であり、このブログでも紹介したような汽水域を神聖視する第六天信仰全盛の時代であったのです。これが土佐の『土』と密接に関わっているのです。
土=悪=サタンのキリスト教思想が日本に伝来するとともに土佐封じ込めの思想が完成され、国譲りの神話が構築されたんですね。
ということは日本人こそ、イスラム教とキリスト教の問題を客観視できるわけであり、両者を和解させる思想を持っているということになります。
キリスト教の問題は、異端を生み出すことによってサタンを悪とみなし、それをイスラム教とみなしてきたことに問題があり、イスラム教の問題は、文明を奪われた憎しみと十字軍の記憶が絶対神を生み出していることに問題があり、本来は両者はひとつであり、土(土曜日)の思想を取り戻せばひとつになることができるのです。
土佐一之宮のシナネ様は風の女神で、東の水神、南の土神、西の日神とセットで認識されます。それに雲をかけることによって風を吹かせないようにするメタファーが『出雲』の語源になっています。
北の風の女神は、675年に草薙剣を献上させられ
東の水神は、浅間信仰の勧請とされてますが本質がまるで違う三体妙見ですし
西の日(火)の神は、東に向かってスフィンクスのように咆哮する日本初の天満宮ですし
南の土の神は、真の三位一体信仰を伝承する石土(いわつち)神社ですし
これら四神に囲まれた中央の内湾には古代、四国の2大山である剣山と石鎚山から川が流れ込んでいたのです。そしてその形は子宮型であり、その中央部に潮満珠を連想させる神功皇后伝説の玉島が浮かんでいるのです。
しかも東の水神付近の平野は、弥生後期に爆発的に人口が増えた痕跡があり、田村遺跡群などは弥生後期では最大の規模を誇る大きさの遺跡です。しかもこれは空港建設に伴う一部を掘り起こしただけに過ぎず、周辺部の散発的な遺跡と統合・分析すると、とてつもない巨大遺跡が浮上してくるのです。
戦国期の天下統一の推移を見ましても、日本全土を掌握するような首都が日本海側にできるなんてことは、地政学的に見て不可能であり、黒潮を掌握していた集団が古大和王権の母体であったことは確実であると思います。
また、瀬戸内の制海権を掌握できない畿内が単独で王権を確立するなんていうこともほぼ不可能で(後年、藤原純友の乱でそれが証明されている)、畿内への王権委譲には四国瀬戸内の勢力が絡んでいることはほぼ確実だろうと思われます。
あまり知られてないかもしれませんが、土佐の長宗我部元親は、明智光秀の家臣、かつて美濃曽根城主だった「斎藤 利三(さいとう としみつ)」の妹を正室に迎えています。
利三は、斉藤道三とは別系譜であったらしいのですが、美濃斉藤氏の正式な系譜であることには変わりはないようです。
後年、織田信長の烏帽子親によって元親の嫡男に”信”の字をつけ、長宗我部信親が誕生するわけですが、この時、織田・長宗我部不可侵条約(※1)なるものが結ばれ、これを一方的に破棄する形になったのを、斎藤 利三が必死になって元親と信長の和解を画策していたようですが、失敗したようです。
これを単に今までは、利三にとっては妹婿(元親)と主君(信長)との調整であったので、という見方をしてういましたが、どうやら違ったようです。
元親が美濃斉藤家の娘をもらうことにはもっと深い意味があって、単に元親と明智光秀が知り合いであったとという話だけにはとどまらないようです。
この謎を解くキーワードが一条氏・土岐氏であり、これを遡っていくと、土佐と美濃には、小野氏・犬神などのおそろしく古い時代の符号が次々と重なってくるのです。
最近、歴史フリークの間では、本能寺の変が信長の四国政策の変更が直接的原因ではないかということが指摘され続けています。
これはどういうことかというと、前述したように長宗我部と織田は光秀や斉藤氏を通して血縁関係に近いつながりを持っていて、不可侵条約に近いものを結んでいたわけです。それを一方的に信長が破棄したため織田家臣軍の土岐・一条系とその他地域の土岐・一条系が呼応し古代豪族複合体が本能寺の変を起こしたということです。
応仁の乱の時に、京都の一条兼良は美濃に一時下向したようですし、一条兼良の長子・一条教房(いちじょう のりふさ)は、応仁の乱を逃れて一条家領のあった土佐国幡多荘に下向しているんですね。
実は、元親の父・長宗我部国親が、この一条氏に庇護されているのです。
光秀は信長に仕える前は諸国を放浪していたようですが、おそらくは一条系の土佐国波多(秦)に来ていたでしょう。
※1 なぜ遠く離れた四国と美濃尾張の間で不可侵条約が結ばれたかというと、両者ともお互いが頂点に上り詰めることを予感しており、日本を南海・西海(西日本)と東海・北海(東日本)に分けて統治しようという不可侵案だったようです。
滋賀県に志那神社という神社があります。
シナというだけに風神を祀っていますが、その名や地形、そしてなにより近江富士(三上山)との配置が、土佐における志那禰神社(土佐神社)と介良富士(介良山)との文化構造の合致を感じさせます。
しかも、その北側は大津であり、紀貫之が出港した大港でもありました。
詳しい説明は過去記事を後々リンクさせてもらいますが、ここで述べたい事は
おそらく風神と三体妙見、そして不二信仰は密接に関わっており
それが天智朝で国のマツリゴトの根本に据えられていたということです。
『土佐物語』には具体的に、斉明天皇が朝鮮半島に出兵する直前のことが記載されていますが、そこに同行した天智天皇と天武天皇のことも書かれています。
土佐と近畿の古代を追っていきますと、壬申の乱と呼ばれるものは血統の争奪戦ではなく、根本祭祀を決定する地形の争奪戦であったように思います。
浦戸湾(土佐)も琵琶湖も、子宮型祭祀なんですけれども、湖東では山神の発する水源を近江と美濃が、そして湖西では近江と山城が争った痕跡が残っています。
この時代の根本祭祀は、戦争とも深く関わっており、帆船をスムーズに航行させる充分な水量と風量を確保するためには、子宮型の内湾と、水を常時放出する山々、そして風待ちをして一気に帆船を出港させる鈎型の港が必要でした。
それは人間の内部を浄化する祓戸四神とも深く関わっていましたが、白村江の戦いで敗北したことによって国内の民衆や豪族に動揺と不安が広がったのかもしれません。(唐による征服説もあり得ます)
変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)
ついに三体妙見の原初形態を見つけました、という感じです。
ドラゴンアナスタの聖地巡礼活動の最終局面で非常に気になっていた三体妙見
おそらく、この三体妙見の信仰は、邪馬台国、すなわち初期大和王権の根本的な宗教認識だったのではないかと感じています。
なぜなら、三体妙見の中心に据えられるのは、コノハナサクヤ姫でありイチキ島姫です。日本神話の中では、磐長姫はコノハナサクヤ姫に実権を奪われた前王朝の象徴のような存在ですが、三体妙見信仰内における磐長姫とコノハナサクヤ姫は共存しています。
つまり、コノハナを裂いて生まれてくるコノハナサクヤ姫は、山においては岩を裂き、海においては海面を裂くわけです。それが水(川)であり土(島)であるわけですけれども、いずれの場合も磐長姫が、隣に存在します。
しかも、一番上で紹介した三体妙見の島とされるうちのひとつは、玉島と言って、神功皇后と白い石の記述が釈日本紀にあります。
神 功 皇 后 と 玉 島(土佐の伝説)
この他にも、様々な深いメタファーが高知に存在しますので、掘り返す必要がある時代に入ってきたと感じています。
レムリアンリゾナンスにおける活動(政治的活動・経済構造転換活動・市民活動)なども、新たな局面に突入しており、そこにユーラシア大同団結のシラヤマリアの思想が結合しそうなので、このブログを構築することとなりました。
私だけでなく、かなり多くの方が新たな局面に入られて新たな出逢い(化学反応)をされているようなので、是非、皆さんも色々とご交流されてください。
スピリチュアルと歴史が入り乱れた古代史談義というものを、ものすごく深いレベルで語れる市民活動の拠点をご用意できつつあるので、Webの世界を抜け出し、実際にお会いしてこのような話をできることを楽しみにしております。
Webでは既に皆さん、かなり追求されてますので、今度はそれをリアルなレベルに落とし込みつつ、議論・融合できれば楽しいかなと思います。
そのような場の提供や企画の案内もこのブログで行っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。