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多民族国家大和

土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。

カテゴリー「公家・武家の中の多民族」の記事一覧
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四国のマリア

【第63番・密教山・吉祥寺(真言宗東寺派)】 愛媛県西条市永見(四国八十八ヵ所巡礼)

四国八十八ヵ所・吉祥寺にマリア像が保存されています。
長曾我部元親がイスパニア船の船長から譲り受け、西条高尾城の金子元宅がこの寺に預けたといわれています。

吉祥寺は吉祥天を祀る概して北極星信仰(異論は多々ありましょうが)の寺です。過去に秦王国と紅十字(Lemurian resonance)で書いたように、四国西部には古代秦王国が存在し、妙見菩薩に紅十字という伝統まで引き継いでいます。

四国八十八ヵ所・63番吉祥寺の例は、その伝統が戦国時代まで引き継がれていた可能性を示唆するものでもあります。

つまり、一般的にキリスト教伝来は1549年とされていますが、これは秀吉と家康、そして明治国家がキリシタン弾圧のために創作した可能性が高く、ザビエルが言っている様に、日本には明らかな古代キリスト教の伝統が息づいていた可能性があります。

問題はこれだけには留まらず、秦王国と紅十字(Lemurian resonance)の中にもリンクさせてもらっている 一条兼定仮寓後編(間口は広いが奥行き無し) 間口は広いがさんの記事ですが、一条兼定という土佐一条氏について触れています。

土佐一条氏は五摂家のひとつで、応仁の乱の頃に土佐に下向してきたと一般的に言われていますが、下向してきた幡多(ハタ)からは七星剣が見つかっているので、それ以前になんらかの王権との結びつきはあったことは確実であり、そこへ先祖がえりしてきたことは間違いがないでしょう。


織田信長が新たに伝来したキリスト教をいち早く取り入れた思想の開けた人物であったと捉えられていますが、古代キリスト教は藤原氏の伝統であり、藤原北家をルーツに持つ織田信長は単なる保守派に過ぎなかったということになります。信長は越前秦氏の血も継承していますから、源平交替思想を基点に古代キリスト教の天皇親政を目指していた可能性すらあります。それが土佐の古代からも読み解ける大和王権の姿なので、さすがに信長は神職の家系であると思います。

この思想が秦王国の末裔である(秦の始皇帝の末裔を公言していた)長宗我部元親と衝突したようです。元親もその子・信親も色白・長身(185cm以上あった)で、柔和な姫若子でした。ただ刀を握ると性格一変、信じるもののために豪胆になりました。杖刀人のイメージと重なる。


長宗我部元親は一条兼定を土佐統一のために追放しましたが、その嫡男である一条内政を引き取り養育しています。後に大津御所(この御所の南には古来より入らずの山とされてきた高天原山があり、この高天原山には山頂には古墳時代の遺跡もあり、巨大なイワクラも存在しています、また紀貫之の出港の地でもあります)と呼ばれますが、元服の際に本能寺の変時の関白であった一条 内基に名前を与えられ、一条氏の後継者として要職の推薦を受け続けました。

ただ、織田信長との政治闘争の中で暗殺されました(おそらく)詳しいことは→三職推任問題~信長の夢は藤氏長者~

ということは関白にまで昇りつめていた天皇の代理人が古代キリスト教の文化を持っていたということになり、私たちが今、認識している古代・中世観というのは全くの間違いということになると思います。




話を元に戻しますと、西条高尾城の金子元宅が吉祥寺にマリア像を預けたとされていますが、実はこの金子氏『ウィキペディア(Wikipedia)』は、武蔵七党の村山党から派生した支族であり、伊予金子氏はその支流。

長宗我部元親の家来にも武蔵七党の横山党の末裔・土佐横山氏があり、四国統一の強力な戦力になっています。しかも土佐には仁井田(ニイダ)神社、新田神社が多数存在し、北関東の豪傑・新田義貞を祀る社も多数、存在します。

関東と四国の結びつきは非常に強く、古代土佐は都佐(トサ)国と波多(ハタ)国の2つのクニから成っていましたが、波多国は東京式アクセントで都佐国は京阪式アクセントです。

波多国が相模の秦野とつながる可能性が高く(伊豆の三体妙見信仰と土佐の三体妙見信仰が同じ)、畿内の秦氏と一線を画していた可能性が非常に高いのです。

阿波(徳島県)は安房(千葉県)となっていますし、関東の妙見信仰と瀬戸内の妙見信仰の間には深いつながりがあります。

伊予三島信仰と伊豆三嶋信仰が三島信仰を争ったこともありますが、この根底には三体妙見があり、北極星が存在しています。
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土佐と美濃の関係

あまり知られてないかもしれませんが、土佐の長宗我部元親は、明智光秀の家臣、かつて美濃曽根城主だった「斎藤 利三(さいとう としみつ)」の妹を正室に迎えています。

利三は、斉藤道三とは別系譜であったらしいのですが、美濃斉藤氏の正式な系譜であることには変わりはないようです。

後年、織田信長の烏帽子親によって元親の嫡男に”信”の字をつけ、長宗我部信親が誕生するわけですが、この時、織田・長宗我部不可侵条約(※1)なるものが結ばれ、これを一方的に破棄する形になったのを、斎藤 利三が必死になって元親と信長の和解を画策していたようですが、失敗したようです。
 

これを単に今までは、利三にとっては妹婿(元親)と主君(信長)との調整であったので、という見方をしてういましたが、どうやら違ったようです。

元親が美濃斉藤家の娘をもらうことにはもっと深い意味があって、単に元親と明智光秀が知り合いであったとという話だけにはとどまらないようです。

この謎を解くキーワードが一条氏・土岐氏であり、これを遡っていくと、土佐と美濃には、小野氏・犬神などのおそろしく古い時代の符号が次々と重なってくるのです。

最近、歴史フリークの間では、本能寺の変が信長の四国政策の変更が直接的原因ではないかということが指摘され続けています。


これはどういうことかというと、前述したように長宗我部と織田は光秀や斉藤氏を通して血縁関係に近いつながりを持っていて、不可侵条約に近いものを結んでいたわけです。それを一方的に信長が破棄したため織田家臣軍の土岐・一条系とその他地域の土岐・一条系が呼応し古代豪族複合体が本能寺の変を起こしたということです。

応仁の乱の時に、京都の一条兼良は美濃に一時下向したようですし、一条兼良の長子・一条教房(いちじょう のりふさ)は、応仁の乱を逃れて一条家領のあった土佐国幡多荘に下向しているんですね。

実は、元親の父・長宗我部国親が、この一条氏に庇護されているのです。

光秀は信長に仕える前は諸国を放浪していたようですが、おそらくは一条系の土佐国波多(秦)に来ていたでしょう。
 

※1 なぜ遠く離れた四国と美濃尾張の間で不可侵条約が結ばれたかというと、両者ともお互いが頂点に上り詰めることを予感しており、日本を南海・西海(西日本)と東海・北海(東日本)に分けて統治しようという不可侵案だったようです。

 


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