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多民族国家大和

土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。

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四国山中の三位一体思想

ご無沙汰しておりました。

先日、土佐山間部の若一王子宮に行っておりました。素晴らしい神気でした。

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祭神は、イザナギ・イザナミ・アマテラスで若一女形の正統派です。

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オガタマの木もありました。みよしの吉野は、ほぼ間違いなく徳島の吉野でしょう。



立田社は珍しいです。天武天皇が何かを恐れるように必死に祀っていた龍田の風神。この若一王子宮から南に下った土佐国一之宮はシナネさまと呼ばれます。”シ”は風ですから、ここの龍田は土佐神社と深い関わりがあるでしょう。

しかし、土佐神社境内の右手奥には神明社が置かれており、西御前は左手に移管させられています。

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にぎにぎしく栄える、花の咲くように栄えるというのは素晴らしい表現。結んで開いて♪の歌のようですね。


参道には一の鳥居付近に夫婦杉、参道中間に孕(はらみ)杉、そして境内への入り口に親子杉がありました。つまりこれは修験道ですよね。

もちろん若一王子自体が熊野修験なので言うまでもないですが、この父・母・子の三位一体思想は熊野というよりも石鎚山系です。

南の浦戸湾には孕(はらみ)という地名があり、地震前にジャーンという怪音が鳴る事で有名です。つまり、この若一王子宮の開基は、石鎚山が開けれた弥生時代、浦戸湾が孕まれる太陽信仰の時代と同じほど古いということになります。

創建は12世紀とされていますが、近くの日本一の大杉・縄文弥生遺跡・棚田を鑑みると12世紀以前に神社が存在していたのは確実です。神主さんに聞きますとあまりよくわからない様子でしたが、明らかに大和朝廷系ではなく邪馬台国系の神社です。

こんな山間部だからこそ残されている貴重な遺産です。

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13×20=大和

昨日、秦氏の20進法 (Lemurian resonance)にも書きましたが、土佐国南西部に秦王国を作った秦氏たちは20進法を用いるマヤ文明のルーツとなった人たち。

マヤの聖数は20ともうひとつ13があります。マヤの暦のひとつであるツォルキン『ウィキペディア(Wikipedia)』は、13×20=260日で一年となります。

古代土佐には都左国と波多国の2つの国がありました。

この都左国と波多国を数字に直しますと

十三(トサ)×二十(ハタ)となります。これが大和であり邪馬台国であると以前からお伝えしています。

また、土佐には”はちきん”と呼ばれる言葉があります。これは男勝りの女性のことを意味し、ポジティブなイメージで捉えられる言葉です。八面と安曇 (Aquarius 安曇)で八面大王は八人の巫女のことで卑弥呼のことであると書きました。

土佐には三目八面(さんめやづら、みつめはちめん) 『ウィキペディア(Wikipedia)』があり、高知県物部村のいざなぎ流 『ウィキペディア(Wikipedia)』神事・日月祭にも八面王は登場します。八面王(やつらおう)神社跡 (四国のやまなみ)もあります。とも書きました。

故に、”はちきん”とは、八人の巫女を讃えた言葉でもあると考えられます。また、マヤの1日を表す言葉はキン(KIN)です。このキンは元々、太陽を表していたようです。このマヤのKINを使うと不思議と”はちきん”や邪馬台国の謎が解けていきます。

つまり”はちきん”とは八人の太陽であり、剣山から発掘されアメリカ軍に押収されている全身入れ墨の八人の太陽の姫巫女たちのことなのです。

これに対して土佐の日本人離れした変骨者は”いごっそう『ウィキペディア(Wikipedia)』”と呼ばれます。男性を指す言葉、そして彦の響きが隠れていること。一五十とも書けることから、五と深い関わりがあり、日子とも関わりがあると思います。つまり五男三女の五男であり、五は男を表します。土佐には五男筆頭延喜式内社・天忍穂耳の天忍穂別神社もありますし、若一王子神社が異様に多いです。

彦(五)+媛(八)で13(土佐)ということになります。しかし、これは土佐に限ったことではなく、北九州にも英彦山と八面山のセットがあります。青森県にも十三湊(とさみなと)があるように土佐は高知県の固有名詞ではなく、全国的に使用された言葉であると思います。
 

話は元に戻りますが、マヤは金属器を持たなかったことで有名ですが、高知県中央部の鏡川にも鉄器を禁忌する文化があります。鏡川に金属を投げ入れると祟りがあるというものです。

おそらくマヤほどの文明があれば鉄を作ることなどたやすかったとは思いますが、あえて作らなかったと考えるほうが自然でしょう。そうした理由は土佐の鏡川のように、鉄を禁忌する文化があったからだと思います。

この鏡川は、西をぐるっと周り、鴻ノ森というピラミッド山を通過して中央部の子宮型の内湾に注ぎ込みます。

西には波多(20)国、東には都左(13)国、そして中央部には鉄を禁忌する鏡川。これらが内湾で融合し、生まれたのが大和ということになろうかと思います。この時の国常立の剣は、土佐国二之宮・小村神社のご神体です。


つまり13×20の文明こそ、私たちが失った古代大和の文明なのです。マヤは、その文明を残した私たちの先祖の文明なのです。



勢いを増す纒向電波


またしても纒向を邪馬台国に仕立て上げたい人たちが電波を発している。

国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 (奈良新聞)


桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)『ウィキペディア(Wikipedia)』は古墳時代前期の古墳です。その中から出てくる銅鏡が、なぜ卑弥呼の鏡なのでしょうか?

*****引用はじめ*****
橿原考古学研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」
*****引用おわり*****(奈良新聞)

三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡を神聖視するのでしたら、国産鏡と同じところに埋葬されていること自体に疑問を感じないんでしょうか。

もし仮に、纒向が卑弥呼の居所で今回発見された三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が魏から送られたものであるならば、国産鏡と同時に見つかるのはおかしい。

『最高の王』を示すのであれば、送られた三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が同じ場所に全てが埋葬されているか、一枚ずつ各首長に配られたか、いずれかである。

普通に考えれば、纒向は後者の鏡を配布された方であり、だからこそ国産鏡と同じ場所に三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が埋葬されているのである。

さらに言うならば、卑弥呼の死後、纒向周辺の豪族が四国の卑弥呼から送られた鏡を一箇所にまとめて畿内をひとつの勢力圏に仕立て上げる闘争を始めたから、桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は築造年代が古墳前期なのである。

橿原考古学研究所の菅谷文則所長の推測はあまりにも暴論だし子供じみている。自分の地元を初期大和王権の発生地にしたいのはわかるが、完全に論理が破綻しているし、権力と肩書きを使っての憶測歴史学は尊敬に値しない行為である。


ちなみに邪馬台国は共和制なので『最高の王』などという概念は存在しません。まず歴史を研究するよりも自分の頭の中の皇国史観を廃することのほうが先決であると思います。卑弥呼は魏と通商を行い連合国家中から共立された民主主義的首長です。そこに帝国主義的『最高の王』が存在するわけないのです。あまりにも馬鹿げています。

邪馬台国と言いながら帝政ローマや、唐帝国、大日本帝国のような専制君主を卑弥呼にあてはめるのは妥当ではないと思います。前提そのものが間違っています。共和制が土地に染み付いた場所が卑弥呼の居所だったのです。遺跡を発掘せずとも日本史を少し勉強するだけで答えが出ます。

共和制復刻自由民権運動がどこから始まり、どのような勢力が帝政江戸幕府を終わらせたのか。簡単に答えは出ます。土地に染み付いたイデオロギーが簡単に変わるわけはありません。

邪馬台国纒向説を支持する人たちが卑弥呼を『最高の王』に仕立て上げようとすればするほど、邪馬台国自体から遠ざかっていくことに気付かねばなりません。

連合国家体制下で帝政を敷いたものなどいるのでしょうか?邪馬台国は完全な連合国家です。『最高の王』を主張するならば、むしろそれは狗那国であるでしょう。

いい加減、歴史を道具にして自分を癒すのはやめにしましょう!癒されたければヒーリングを受ければ良いだけのこと。



堂ノ後古墳、実は5世紀後半 奈良・桜井市教委が発掘調査 (さきがけWeb)

長年、国内最古の前方後円墳などと主張してきた堂ノ後古墳が学生のレーダ調査であっという間に存在意義が瓦解。こういうところには全く目を向けず、自分の都合のいいようにメディアと権力を使って纒向教を宣伝するのは百害あって一理なし。


ちなみに、古墳前期の築造とされるホケノ山古墳(ほけのやまこふん)『ウィキペディア(Wikipedia)』はホタテ型ですが、高知の卑弥呼の墓とされる古墳はイチョウ型です。




四国のマリア

【第63番・密教山・吉祥寺(真言宗東寺派)】 愛媛県西条市永見(四国八十八ヵ所巡礼)

四国八十八ヵ所・吉祥寺にマリア像が保存されています。
長曾我部元親がイスパニア船の船長から譲り受け、西条高尾城の金子元宅がこの寺に預けたといわれています。

吉祥寺は吉祥天を祀る概して北極星信仰(異論は多々ありましょうが)の寺です。過去に秦王国と紅十字(Lemurian resonance)で書いたように、四国西部には古代秦王国が存在し、妙見菩薩に紅十字という伝統まで引き継いでいます。

四国八十八ヵ所・63番吉祥寺の例は、その伝統が戦国時代まで引き継がれていた可能性を示唆するものでもあります。

つまり、一般的にキリスト教伝来は1549年とされていますが、これは秀吉と家康、そして明治国家がキリシタン弾圧のために創作した可能性が高く、ザビエルが言っている様に、日本には明らかな古代キリスト教の伝統が息づいていた可能性があります。

問題はこれだけには留まらず、秦王国と紅十字(Lemurian resonance)の中にもリンクさせてもらっている 一条兼定仮寓後編(間口は広いが奥行き無し) 間口は広いがさんの記事ですが、一条兼定という土佐一条氏について触れています。

土佐一条氏は五摂家のひとつで、応仁の乱の頃に土佐に下向してきたと一般的に言われていますが、下向してきた幡多(ハタ)からは七星剣が見つかっているので、それ以前になんらかの王権との結びつきはあったことは確実であり、そこへ先祖がえりしてきたことは間違いがないでしょう。


織田信長が新たに伝来したキリスト教をいち早く取り入れた思想の開けた人物であったと捉えられていますが、古代キリスト教は藤原氏の伝統であり、藤原北家をルーツに持つ織田信長は単なる保守派に過ぎなかったということになります。信長は越前秦氏の血も継承していますから、源平交替思想を基点に古代キリスト教の天皇親政を目指していた可能性すらあります。それが土佐の古代からも読み解ける大和王権の姿なので、さすがに信長は神職の家系であると思います。

この思想が秦王国の末裔である(秦の始皇帝の末裔を公言していた)長宗我部元親と衝突したようです。元親もその子・信親も色白・長身(185cm以上あった)で、柔和な姫若子でした。ただ刀を握ると性格一変、信じるもののために豪胆になりました。杖刀人のイメージと重なる。


長宗我部元親は一条兼定を土佐統一のために追放しましたが、その嫡男である一条内政を引き取り養育しています。後に大津御所(この御所の南には古来より入らずの山とされてきた高天原山があり、この高天原山には山頂には古墳時代の遺跡もあり、巨大なイワクラも存在しています、また紀貫之の出港の地でもあります)と呼ばれますが、元服の際に本能寺の変時の関白であった一条 内基に名前を与えられ、一条氏の後継者として要職の推薦を受け続けました。

ただ、織田信長との政治闘争の中で暗殺されました(おそらく)詳しいことは→三職推任問題~信長の夢は藤氏長者~

ということは関白にまで昇りつめていた天皇の代理人が古代キリスト教の文化を持っていたということになり、私たちが今、認識している古代・中世観というのは全くの間違いということになると思います。




話を元に戻しますと、西条高尾城の金子元宅が吉祥寺にマリア像を預けたとされていますが、実はこの金子氏『ウィキペディア(Wikipedia)』は、武蔵七党の村山党から派生した支族であり、伊予金子氏はその支流。

長宗我部元親の家来にも武蔵七党の横山党の末裔・土佐横山氏があり、四国統一の強力な戦力になっています。しかも土佐には仁井田(ニイダ)神社、新田神社が多数存在し、北関東の豪傑・新田義貞を祀る社も多数、存在します。

関東と四国の結びつきは非常に強く、古代土佐は都佐(トサ)国と波多(ハタ)国の2つのクニから成っていましたが、波多国は東京式アクセントで都佐国は京阪式アクセントです。

波多国が相模の秦野とつながる可能性が高く(伊豆の三体妙見信仰と土佐の三体妙見信仰が同じ)、畿内の秦氏と一線を画していた可能性が非常に高いのです。

阿波(徳島県)は安房(千葉県)となっていますし、関東の妙見信仰と瀬戸内の妙見信仰の間には深いつながりがあります。

伊予三島信仰と伊豆三嶋信仰が三島信仰を争ったこともありますが、この根底には三体妙見があり、北極星が存在しています。

戦後歴史学(纒向説)の狂気


昨日、纒向遺跡での新たな発見の特集をクローズアップ現代で放映していたのですが、めちゃくちゃな暴論が公共の電波を通して流れていましたので、訂正しておきたいと思います。


①本殿中央部に柱が建っている→出雲に同じものがある→部屋がいくつもに分けられ卑弥呼が祭祀を行っていた可能性が高い。

②卑弥呼は誰にも会わず、弟が世話をしていた(魏志倭人伝)→それを彷彿させる部屋のつくり→卑弥呼の居所に間違いがない。

③纒向に防衛機能(環濠)がない→この時代に地域がひとつになった王権が確立されたため。

④ほとんどの建物が天子南面の中国思想で建築されているにも関わらず発掘された建物は東に向いている→日本古来の太陽信仰に違いない(ひのみこの思想)
 

この4つが今回、発掘された建物を邪馬台国のものに仕立てあげたい人たちの根拠ですが、あまりにもお粗末過ぎます。

①に関しては、縄文時代から日本では心御柱の建築はありましたが、纒向で発見された建物の中央の柱跡はそういう思想を全く感じられない建物です。ゆえに祭祀の建物である可能性は低く、単なる食糧貯蔵庫であった可能性のほうが高いです。わざわざ出雲の建物を持ち出すまでもないことです。

②に関しては、それほど大きくはない建物がいくつにも区切られているからといって、それが卑弥呼の居所に間違いないとするならば、一体、卑弥呼は日本に何人いたんでしょうか?コントのネタではないのか(笑)


③に関しては、卑弥呼が亡くなった後は男王が立って、再び倭国大乱になりましたし、卑弥呼存命中も狗奴国と戦争状態にありましたから、環濠がないことを卑弥呼王権確立の根拠にするのは狂気地味ていると思います。

④に関しては、古代の太陽信仰を持ち出すならば、最も神聖視されていたのは、冬至の日に太陽が昇ってくる辰巳の方角です。この冬至の日を境に日が高くなり始めるので、太陽神復活の方角とされました。柚子は太陽を表しましたから、冬至の日に日本人は柚子風呂に入ります。柚子の発祥は土佐ですし、田村遺跡群ー土佐神社ー七ツ淵は辰巳ラインで一直線に並んでいます。



しかも、纒向遺跡は大きく見積もっても半径2kmほど文化圏です。それに引き換え高知県田村遺跡群周辺は少なくとも半径6kmの弥生大文化圏です。2重環濠も持ち、既に850棟も出土した田村遺跡が同時代に土佐に存在するのに、たった半径2kmしかない奈良の山奥の地に一体、誰が王権を作るというのでしょうか?あまりにも馬鹿げています。



少なくとも、2つが同時代に並存しているわけですから、朝鮮半島に近い土佐が政治的に進んでいた可能性は高いでしょう。権力闘争も鉄器作製も土佐は北九州と同程度か、それよりも早い段階で推移していたわけですから。


纒向=邪馬台国説はあまりにも狂気地味ているし、稚拙過ぎると思います。

 


深淵とイシュタル

土から生まれ土に還る 記事で土佐における四神の配置とバビロニアのことについてざっと書きましたが、特に西の日(火)の神付近とバビロニアに関連することについて、詳しく。

土佐の四神のうち西の日(火)の神は、巨大な獅子岩をその原初信仰としており、これが後に牛頭天王に変わり、潮江天満宮(日本初の天満宮)へと変遷していきました。

詳しくは→天満宮と北極星(Lemurian resonance)を参照

西の日(火)の神付近は、北の台地から西側のピラミッド型の山をぐるっと回って龍馬も遊んだ鏡川という川が内湾に注ぎ込む河口になっています。

この鏡川の最上流部に七ツ淵(七ツ淵神社もあり)という地があります。1週間を7日(七曜)にしたのはシュメール人といわれます。七曜に関しても 土から生まれ土に還る 記事で密教伝播以前に日本に入ってきていた可能性が高いと指摘しました。

シュメール人は龍が春に出てきて秋に入っていくと考えていました。どこから出てきてどこへ還っていくかというと”淵”です。土佐には七ツ淵神社以外にも深淵神社(玄松子さん)という延喜式内社もあります。深淵水夜禮花命を祀っているのは全国で唯一、この神社だけです。この他にも地の底まで続くような地割れが史跡となっているところもあります。

この七ツ淵付近を源流とする鏡川は龍神の川と言われており、金属器を投げ入れると祟りがあると信じられていて、実際にばちが当たった人もいます。この鏡川が鴻ノ森というピラミッド型の山を経由し、南の内湾・浦戸湾に注いでいるのです。

その途中に斉明天皇崩御地の朝倉があります。この朝倉神社の祭神は天津羽羽神、つまりは龍神です。それで、最終地点・潮江(牛尾江)に獅子が待ち構えているのです。

バビロン
『ウィキペディア(Wikipedia)』の主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られていました。

また、この潮江山頂の巨石からは金星が非常に美しく見え、イシュタルと雄牛もまた潮江の巨石でつながるのである。なぜ菅原道真の長男・菅原高視『ウィキペディア(Wikipedia)』が土佐の国衙とは、ほど遠い潮江の地に住み、そこで道真の遺物を受け取ったかが上記の理由をもって説明できる。

上古、私たち日本人の文明は非常にオリエントの文明と直結したものでありましたが、鎌倉・室町・戦国期を通じて、特に江戸時代を通じて余分なものはそぎ落とされ、明治期の皇国史観で完全にシャットアウトされたのだと感じます。


これからは、皇国史観を拝し、世界の民族と宗教が融合した多民族国家としての大和を私たちのアイデンティティーとして取り戻していく必要があるでしょう。


弥生時代の鉄器ルート


一般的に弥生時代の鉄器は北部九州に前期に持ち込まれ、後期以降に西日本各地に持ち込まれたとされていますが、高知県土佐市新居の上ノ村遺跡からは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構から鉄製品約170点が出土しており、遺構の周辺も合わせると計約250点となる。砥石も出土しており鉄製品の加工をしていたと見られ、この事例は従来の弥生感を覆している。

日本海側の妻木晩田遺跡からは200点以上の鉄器が出土していますが、これは弥生後期のものであり、従来の弥生感の範疇に入るものです。

同じ日本海側の荒神谷遺跡『ウィキペディア(Wikipedia)』から大量の銅剣が出土しておりますが、弥生時代中期後半に製作されたものであり、それと同じ時期に太平洋側の土佐では鉄器が既に製作されていたわけであります。

鉄器生産を行っただろうとされる弥生の鍛冶遺構をまとめてみます。(古い順)

重留遺跡(福岡県)弥生時代中期~後期?
3基の炉跡

上ノ村遺跡(高知県)弥生時代中期末(1世紀初め)
鉄製品約250点。砥石(といし)も見つかっていることから鉄製品の加工拠点だった可能性が高い。

垣内遺跡(兵庫県)弥生時代後期
鉄片など計75点。鍛冶(かじ)工房跡計10カ所

庄遺跡(徳島県)弥生時代後期
鉄の残片など約50点や鉄やじり2点
鉄器の形を整えたり、研いだりするために使った鉄床石(かなとこいし)兼砥石(といし)十数点


現段階では上ノ村遺跡からは炉が出土していないため、断言はされてませんが、高知県の鉄器製作は福岡と同時期に始まっており、居徳遺跡の戦傷人骨を含めると(上ノ村遺跡は居徳遺跡のすぐ南)やはり少なくとも縄文晩期から北部九州と同じスピードでユーラシアの文明がもたらされた可能性が高いのです。

なぜそういうことが起こるかというと、弥生時代の早い段階で邪馬台国と北の一大卒という枠組みが出来始めていたということです。なぜそうなのかというと高知県中心部の子宮祭祀型の地形が、様々な人種と文明を引き寄せていたということになります。



しかも高知県中心部は銅矛文化圏と銅鐸文化圏の交わる境界線でもあり東日本と西日本の文明をつなぐ首都機能を持った都市であったことが推測できます。なぜなら邪馬台国の根本原理は多民族・多宗教の共和制連合国家であり、弥生時代後期の銅矛・銅鐸文化圏が交わらないところはその必要条件を満たさないわけであり、その条件を満たすのが唯一、四国の中心部であるのです。


下記に居徳遺跡・上ノ村遺跡・田村遺跡の連続性を示します。

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居徳遺跡(縄文晩期)→国内最古の戦傷人骨→権力闘争始まる

上ノ村遺跡(弥生時代中期末)→鉄製品約250点
→弥生文化の一部が北部九州よりも早い段階で土佐に伝播していたことを考えると鉄器伝播ももっと遡る可能性がある。権力闘争が一段落し、鉄器を媒介とした王権が発生し始めた可能性がある。

田村遺跡(弥生後期)→約850棟の建物跡・半径6ー7kmが同じ文化圏にある。周辺部の遺跡が密接に関わっており王権ができるとともに自由市民が発生した痕跡がある。
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古代ローマと土佐

古代ローマが実質的に帝政に移行したのは、285年のことです。これ以降専制君主制が始まり、ローマ帝国と呼ばれるものになっていきました。

同じ時期に日本で何が起こっていたかというと『卑弥呼の死』→『男王立ったが世乱れる』→『台与の擁立』です。

古代ローマ『ウィキペディア(Wikipedia)』の帝国という意味には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあったらしく、土佐人の内奥の哲学と激しく一致するのです。このブログの題名ともなっています。

また、これは邪馬台国の連合国家形態と同じであり、ユーラシアの東の国・ジパングで共和制の女王卑弥呼が亡くなったことと、ユーラシアの西の地中海で共和制が終焉し、帝政が始まったことは非常に大きなメタファーが横たわっていると思うのです。


邪馬台国と倭国の主導権を争った南の狗奴国はおそらく帝政を選択しており、強大な軍事国家であったと思います。

邪馬台国が魏との貿易も行う国際貿易体制連合国家であったのに反して、狗奴国は帝政ローマの思想や中国・呉とも結びつく大まかに鎖国主義の帝政国家であったと思われます。

日本神話に記される国譲りはおそらく共和制から帝政への移行であり、それが軍事力をともなって行使されなかったはずはなく、しかし、帝政は共和制時代の文化をそのまま継承したという痕跡が土佐には残っているのです。

この構図というのは壬申の乱時代にも繰り返されており、共和制・天智天皇朝→帝政・天武天皇朝の国譲りでも土佐は草薙の剣とも思われる三種の神器を献上させられているのです。

詳しくは→刀と骨(Lemurian resonance)を参照

このように日本史とは、共和制と帝政のせめぎあいの歴史であり、幕末に坂本龍馬が大政奉還を実現し、明治期に土佐から自由民権運動が展開され、共和制が目指されたのは単なる偶然ではありません。

戦国期の土佐の武将・長宗我部氏の兵農一致の『一領具足』は、1兵卒が軍略会議に参加し発言していた日本で唯一の例ですので、土佐の共和制のルーツは、はるか古代にまで遡ることができるのです。

この文化的側面の考察と田村遺跡・居徳遺跡発掘の状況、神社史などの考察を合わせますと、土佐邪馬台国共和制というものがはっきりとした形で見えてくるのです。

自由民権運動の時に激震地にさえならなかった畿内が共和制邪馬台国の中心であるはずもなく、ましてや初期大和王権の発生地であるわけもないのです。

大和という言葉は、様々な民族が大同団結しひとつのクニ(六合=天・地・東・西・南・北)を造ったという哲学であるので、明らかにこれはローマの共和制と同じなのです。

アテナイの市民がアゴラに集まって開いていた民会『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じ文化が土佐には残っています。『おきゃく』という文化ですが、老若男女が一同に会し、政治や経済のことなどについて酒を飲みながら熱く語ります。

これは日本の他地域には見られない非常に珍しい文化で、酒を飲んで顔を真っ赤にしながら政治のことについてじいさん・ばあさん・大人・子供が議論し合うのは、やはり日本離れしていると思います。

この民会の中から『はちきん』と呼ばれる男勝りな女性が生み出されてくるのです。結局、これが楠瀬喜多(すのせ きた)のような政治的男勝り女性を生み出していくわけですが、これが神功皇后の系譜とも言って良いと思います。

つまり神功皇后がなぜあれほどまでに政治的で負けん気が強いのか?これについて書かれたものはあまり見ません。日本書紀が捏造であったとしても神功皇后の性格は当時の女王の性格を投影している可能性が高いと言えます。それが何から生まれるかと言えば、単に生まれつきなどではなく、幼少の頃から民会のような場所で政治談義にふけっていた可能性もあるのです。

民衆を統率して朝鮮半島に出兵するのですから、それなりの軍事的戦略・政治的統率力・民衆を魅了する教養がなければならないと思います。

そういう女性が生まれる文化的素地が未だに土佐には残っているのです。


 


邪馬台国纒向説という幻想


<奈良・纒向遺跡>3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か (毎日新聞)

おそろしく誤った知識が垂れ流されてますので、訂正しておきたいと思います。

まず、纒向遺跡は防衛機能を持っておらず、あったとしても一重の柵があっただけです。

同時代の九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)『ウィキペディア(Wikipedia)』は2重の環濠集落ですし、高知県の田村遺跡(ことバンク)も2重の環濠を持った集落群です。

倭国大乱を経験した王権の都が無防備な一重の柵などで造られるわけがありません。

*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****
2000年2月に高知県南国市で見つかった、全国で最大級の弥生時代の集落遺跡。約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物の計約850棟が確認された。三重の環濠や大量の土器やガラス玉、環状石斧(せきふ)を始め、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。北部九州より古い弥生土器もあるとされ、早くから発展し、盛期には「1000人規模の弥生都市だった」との見解も出されている。
( 天野幸弘朝日新聞記者/今井邦彦朝日新聞記者 )
*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****


それと吉野ヶ里遺跡は発掘当初は邪馬台国か!と期待されましたが、それほど多くの建物跡がでませんでしたので、それほど大規模なものではありません。

高知県の田村遺跡は既に約850棟の建物跡が確認されてますし、しかもこれは空港建設拡張にともなう調査なので、周辺部は、まだ手をつけてない状態でこの規模なのです。さらには人面獣身の土偶や神殿らしい建物が描かれた土器も見つかっていますので、田村遺跡が発掘された高知県香長平野のどこかに卑弥呼の居城跡(神殿)が見つかる可能性は高いです。


田村遺跡周辺部の遺跡を一部まとめますと

西野々遺跡(高知新聞)
弥生中期とみられる直径6メートル以下の小・中型の竪穴住居跡を46棟確認。東約1・5キロの田村遺跡群出土の土器と特徴が類似。高知県県西部で見つかる土器も交じっている。

介良野遺跡(高知新聞)
発掘されたのは弥生時代ごろの竪穴住居跡17棟や、大皿やつぼなど
弥生土器数千点のほか、石包丁1点、鉄やじり1点、磨石2点など

士島田(ししまだ)遺跡(高知新聞)
直径8~10メートルほどの円形竪穴住居跡8軒を含む計32軒が出土した。

伏原遺跡(高知新聞)
弥生時代後期末から古墳時代初頭(3世紀後半―4世紀前半)の五角形の竪穴住居跡を含む全12棟。同遺跡の周辺には20以上の古墳や遺跡が集中。四国最大の大型方墳「伏原大塚古墳」や、同時期の竪穴住居跡が見つかっている「ひびのきサウジ遺跡」などがあり、一帯に大規模集落が存在していた可能性があるという。

田村遺跡群が急速に拡大し最盛期を迎え,周辺部に新たなムラが作られていく時期にあたります。伏原遺跡もそのようなムラの一つではないでしょうか。(高知埋蔵文化財センター)

伏原遺跡が田村遺跡群より北東6-7kmの地点にあることから、田村遺跡群の勢力規模は半径5km以上に及んだ可能性が高く、上記の遺跡はその範囲内にあり、全て弥生後期の竪穴住居跡が出土していることから、広大な香長平野全てが田村遺跡群の勢力下にあった可能性があるのです。上記、伏原遺跡の見解は昨年出されたものであり、広大な香長平野は未だほとんどが優良農地で田園風景が広がっているため、国内で唯一、邪馬台国7万戸の竪穴住居跡を発掘できる可能性のある地域であると思います。




田村遺跡群の最終総論(高知埋蔵文化財センター調査報告書)
上記最終報告書内に記載されてますが、未だこの遺跡からは権力を意識させるような遺構が、出てきてないため、南四国の調査はここで終了にしたいとまで書かれてますが大きな疑問も呈されています。
『何故、出自の違うものが同一集落内に共棲できたのか、果ては共同体の構成とはどのようなものかと言った多くの疑問点に遡及してしまう。』と。

私もこれには同感であり、膨大な竪穴住居跡が発見されながら文化的統一性や権力の集中性が発見されないのは明らかにおかしいと言わざるを得ないと思います。

小規模なムラにしてもそのムラの決まりごとを決め、守っていくという集団のルールみたいなものが発生し、ムラの長が発生するはずですから(原始社会でもこれはそうです)、こと何千人規模の集落群から長のものと言える住居跡や装飾品が見つからない、あるいはその痕跡さえつかみどころにかける、というような出土状況なのです。


しかし、よく考えて頂きたいのは、この田村遺跡群と並ぶような形で存在する内湾対岸の居徳遺跡群(土佐市)からは、国内最古(縄文晩期)の戦傷人骨が出土しています。ということはですね、土佐では国内で最も早い段階で権力闘争が始まった可能性が高く、田村遺跡において権力統制が行われていないはずがないのです。


このことから導きだされるたったひとつの答えは、『権力者の神殿が香長平野のどこかに埋もれている』ということであり、現在発掘された田村遺跡群の散発的な竪穴住居跡は、権力者の居住区とは隔離された一般市民の自由居住区だったということになると思います。

現在発見されている小型(2,3m)の竪穴住居~大型(9,10m)の竪穴住居は、単に一般市民の中での生活水準の違いによるもので権力の強弱ではないということです。

五角形の竪穴住居跡が出た伏原遺跡よりさらに奥の物部川中流域には、武器庫を表す地名や、卑弥呼を連想させるような地名もありますから、そこから自由市民に支持される政治を行っていた可能性は、あると思います。

すなわち高知では、縄文晩期に権力の闘争が始まり、600-700年の熟成を経て、弥生後期には都市国家ポリスのようなものができていたということです。それが邪馬台国であり、田村遺跡を含む自由市民ネットワークなのです。紀元前5世紀頃と言えばオリエントではスパルタ・アテナイ・ペルシャ・マケドニアなどの時代であり、これらの都市国家の古代戦争を逃れた人たちが日本にやってきた可能性は高く、高知県居徳遺跡の戦傷人骨、そして田村遺跡の規模と土佐における宗教的遺産の集積度、それと『自由』に対する理解と希求度を考慮に入れると、都市国家ポリスが弥生後期に土佐で生まれていた可能性は非常に高いのです。

自由民権運動を起こしたイデオロギーが、土佐南学(山崎闇斎などを含む)にまで遡及できることが現在徐々に明らかにされており、戦国期の長宗我部の『一領具足』が古代の自由市民の再生である可能性もあるのです。


邪馬台国7万戸の首長の居城が、「南北19.2メートル、東西6.2メートル」(今回纒向遺跡で発見された建物跡)程度の建物であるわけがないのです。高知県田村遺跡で発掘された一般市民の竪穴住居の2倍ほどの規模しかないわけですから。


土佐大津と近江大津

私の最新の研究(?)から言いますと、古代の都は一時期、陰陽一対で運営されていたのではないかと考えています。


近つ飛鳥・遠つ飛鳥、近つ淡海・遠つ淡海などの言葉がその名残であり、近つ淡海を琵琶湖畔、遠つ淡海を土佐の古浦戸湾に設定すると、土佐の様々な不思議が急速に解決し始めるのです。
(本来、遠つ淡海はとうとうみとして浜名湖が設定されていますが)

土佐大津と近江大津は、子宮型祭祀、風神祭祀、三体妙見祭祀、タケル祭祀、祓戸信仰、小野氏つながり、アジスキタカヒコネつながり、食道楽つながり、天智天皇つながりなどで深い一致があります。

そしてその文明構造が最終的に京都に奪われた形になってクローズしているのも似ています。

律令・条里制の中央集権国家が完成される前は、おそらく子宮型祭祀・汽水域神聖視の天の川連合国体国家が選択されており、膨大な帆船をつなぎとめておく港が都のすぐ近くにあったようです。

風神と不二(過去記事)でも書きましたように、帆船をつなぎとめておく港は内湾であり、風待ちをして一気に帆船を進ませる地形がなければ都としては機能しなかったようです。

そのために風神が祀られていて龍田大社の級長戸辺命が国御柱神とされるのはこういう理由からではないかと思います。

しかし、龍田大社の創建は675年であり、それ以前に風神を祀る文化があったことは明白であり、風神祭祀をこの龍田大社起源にするのは、明らかな無理があるということになります。しかも龍田大社付近には古代内湾の痕跡もそれに伴う風待ちの文化の継承も見当たらないですし。

詳しくは刀と骨(Lemurian resonance)を参照


 


土から生まれ土に還る

日本神話の神世七代『ウィキペディア(Wikipedia)』は、おそらくは七曜であり、一般的に曜日『ウィキペディア(Wikipedia)』が密教によってもたらされたというのは間違いであると思います。


おそらくは初期大和王権つまり邪馬台国にはミトラが入ってきており、第六天の土(泥)が神聖視された痕跡があります。この信仰は日本においては古墳時代を通じて埴輪として表現されましたが、その後急速に衰えていきます。(つまり古代バビロニアの思想がなんらかの宗教の形をとって紀元前後には既に入ってきていたということになります)

イスラム教ではアズラエルがアダムを創ったともされ、アズラエルは土の神なので、神世七代とは恐ろしく一致します。キリスト教では後の異端排斥で死を連想させるもの(死ねば土に還る)を全て追放しましたので、土の思想が失われ、土=悪=サタンとして定着しました。(ここにイスラム教とキリスト教の対立の根源があるでしょう)

しかし、古代ローマのサトゥルナリア祭で大地(土)の神サトゥルヌスを祝っていたように、土=悪=サタンの考え方は、キリスト教が求心力を強めていく中で醸成されていった社会通念であったことがわかります。

神世七代の時代こそ、まさに初期大和王権の時代であり、このブログでも紹介したような汽水域を神聖視する第六天信仰全盛の時代であったのです。これが土佐の『土』と密接に関わっているのです。


土=悪=サタンのキリスト教思想が日本に伝来するとともに土佐封じ込めの思想が完成され、国譲りの神話が構築されたんですね。

ということは日本人こそ、イスラム教とキリスト教の問題を客観視できるわけであり、両者を和解させる思想を持っているということになります。

キリスト教の問題は、異端を生み出すことによってサタンを悪とみなし、それをイスラム教とみなしてきたことに問題があり、イスラム教の問題は、文明を奪われた憎しみと十字軍の記憶が絶対神を生み出していることに問題があり、本来は両者はひとつであり、土(土曜日)の思想を取り戻せばひとつになることができるのです。



土佐一之宮のシナネ様は風の女神で、東の水神、南の土神、西の日神とセットで認識されます。それに雲をかけることによって風を吹かせないようにするメタファーが『出雲』の語源になっています。

北の風の女神は、675年に草薙剣を献上させられ

東の水神は、浅間信仰の勧請とされてますが本質がまるで違う三体妙見ですし

西の日(火)の神は、東に向かってスフィンクスのように咆哮する日本初の天満宮ですし

南の土の神は、真の三位一体信仰を伝承する石土(いわつち)神社ですし

これら四神に囲まれた中央の内湾には古代、四国の2大山である剣山と石鎚山から川が流れ込んでいたのです。そしてその形は子宮型であり、その中央部に潮満珠を連想させる神功皇后伝説の玉島が浮かんでいるのです。

しかも東の水神付近の平野は、弥生後期に爆発的に人口が増えた痕跡があり、田村遺跡群などは弥生後期では最大の規模を誇る大きさの遺跡です。しかもこれは空港建設に伴う一部を掘り起こしただけに過ぎず、周辺部の散発的な遺跡と統合・分析すると、とてつもない巨大遺跡が浮上してくるのです。

戦国期の天下統一の推移を見ましても、日本全土を掌握するような首都が日本海側にできるなんてことは、地政学的に見て不可能であり、黒潮を掌握していた集団が古大和王権の母体であったことは確実であると思います。

また、瀬戸内の制海権を掌握できない畿内が単独で王権を確立するなんていうこともほぼ不可能で(後年、藤原純友の乱でそれが証明されている)、畿内への王権委譲には四国瀬戸内の勢力が絡んでいることはほぼ確実だろうと思われます。


 


土佐と美濃の関係

あまり知られてないかもしれませんが、土佐の長宗我部元親は、明智光秀の家臣、かつて美濃曽根城主だった「斎藤 利三(さいとう としみつ)」の妹を正室に迎えています。

利三は、斉藤道三とは別系譜であったらしいのですが、美濃斉藤氏の正式な系譜であることには変わりはないようです。

後年、織田信長の烏帽子親によって元親の嫡男に”信”の字をつけ、長宗我部信親が誕生するわけですが、この時、織田・長宗我部不可侵条約(※1)なるものが結ばれ、これを一方的に破棄する形になったのを、斎藤 利三が必死になって元親と信長の和解を画策していたようですが、失敗したようです。
 

これを単に今までは、利三にとっては妹婿(元親)と主君(信長)との調整であったので、という見方をしてういましたが、どうやら違ったようです。

元親が美濃斉藤家の娘をもらうことにはもっと深い意味があって、単に元親と明智光秀が知り合いであったとという話だけにはとどまらないようです。

この謎を解くキーワードが一条氏・土岐氏であり、これを遡っていくと、土佐と美濃には、小野氏・犬神などのおそろしく古い時代の符号が次々と重なってくるのです。

最近、歴史フリークの間では、本能寺の変が信長の四国政策の変更が直接的原因ではないかということが指摘され続けています。


これはどういうことかというと、前述したように長宗我部と織田は光秀や斉藤氏を通して血縁関係に近いつながりを持っていて、不可侵条約に近いものを結んでいたわけです。それを一方的に信長が破棄したため織田家臣軍の土岐・一条系とその他地域の土岐・一条系が呼応し古代豪族複合体が本能寺の変を起こしたということです。

応仁の乱の時に、京都の一条兼良は美濃に一時下向したようですし、一条兼良の長子・一条教房(いちじょう のりふさ)は、応仁の乱を逃れて一条家領のあった土佐国幡多荘に下向しているんですね。

実は、元親の父・長宗我部国親が、この一条氏に庇護されているのです。

光秀は信長に仕える前は諸国を放浪していたようですが、おそらくは一条系の土佐国波多(秦)に来ていたでしょう。
 

※1 なぜ遠く離れた四国と美濃尾張の間で不可侵条約が結ばれたかというと、両者ともお互いが頂点に上り詰めることを予感しており、日本を南海・西海(西日本)と東海・北海(東日本)に分けて統治しようという不可侵案だったようです。

 


風神と不二


滋賀県に志那神社という神社があります。

シナというだけに風神を祀っていますが、その名や地形、そしてなにより近江富士(三上山)との配置が、土佐における志那禰神社(土佐神社)と介良富士(介良山)との文化構造の合致を感じさせます。

しかも、その北側は大津であり、紀貫之が出港した大港でもありました。

詳しい説明は過去記事を後々リンクさせてもらいますが、ここで述べたい事は
おそらく風神と三体妙見、そして不二信仰は密接に関わっており
それが天智朝で国のマツリゴトの根本に据えられていたということです。

『土佐物語』には具体的に、斉明天皇が朝鮮半島に出兵する直前のことが記載されていますが、そこに同行した天智天皇と天武天皇のことも書かれています。

土佐と近畿の古代を追っていきますと、壬申の乱と呼ばれるものは血統の争奪戦ではなく、根本祭祀を決定する地形の争奪戦であったように思います。

浦戸湾(土佐)も琵琶湖も、子宮型祭祀なんですけれども、湖東では山神の発する水源を近江と美濃が、そして湖西では近江と山城が争った痕跡が残っています。


この時代の根本祭祀は、戦争とも深く関わっており、帆船をスムーズに航行させる充分な水量と風量を確保するためには、子宮型の内湾と、水を常時放出する山々、そして風待ちをして一気に帆船を出港させる鈎型の港が必要でした。

それは人間の内部を浄化する祓戸四神とも深く関わっていましたが、白村江の戦いで敗北したことによって国内の民衆や豪族に動揺と不安が広がったのかもしれません。(唐による征服説もあり得ます)


 


初期大和王権&近況報告

変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)

ついに三体妙見の原初形態を見つけました、という感じです。

ドラゴンアナスタの聖地巡礼活動の最終局面で非常に気になっていた三体妙見

おそらく、この三体妙見の信仰は、邪馬台国、すなわち初期大和王権の根本的な宗教認識だったのではないかと感じています。

なぜなら、三体妙見の中心に据えられるのは、コノハナサクヤ姫でありイチキ島姫です。日本神話の中では、磐長姫はコノハナサクヤ姫に実権を奪われた前王朝の象徴のような存在ですが、三体妙見信仰内における磐長姫とコノハナサクヤ姫は共存しています。


つまり、コノハナを裂いて生まれてくるコノハナサクヤ姫は、山においては岩を裂き、海においては海面を裂くわけです。それが水(川)であり土(島)であるわけですけれども、いずれの場合も磐長姫が、隣に存在します。


しかも、一番上で紹介した三体妙見の島とされるうちのひとつは、玉島と言って、神功皇后と白い石の記述が釈日本紀にあります。

神 功 皇 后 と 玉 島(土佐の伝説)

この他にも、様々な深いメタファーが高知に存在しますので、掘り返す必要がある時代に入ってきたと感じています。


レムリアンリゾナンスにおける活動(政治的活動・経済構造転換活動・市民活動)なども、新たな局面に突入しており、そこにユーラシア大同団結のシラヤマリアの思想が結合しそうなので、このブログを構築することとなりました。



私だけでなく、かなり多くの方が新たな局面に入られて新たな出逢い(化学反応)をされているようなので、是非、皆さんも色々とご交流されてください。

スピリチュアルと歴史が入り乱れた古代史談義というものを、ものすごく深いレベルで語れる市民活動の拠点をご用意できつつあるので、Webの世界を抜け出し、実際にお会いしてこのような話をできることを楽しみにしております。

Webでは既に皆さん、かなり追求されてますので、今度はそれをリアルなレベルに落とし込みつつ、議論・融合できれば楽しいかなと思います。


そのような場の提供や企画の案内もこのブログで行っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。



 


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