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多民族国家大和

土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。

カテゴリー「纒向電波論」の記事一覧
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勢いを増す纒向電波


またしても纒向を邪馬台国に仕立て上げたい人たちが電波を発している。

国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 (奈良新聞)


桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)『ウィキペディア(Wikipedia)』は古墳時代前期の古墳です。その中から出てくる銅鏡が、なぜ卑弥呼の鏡なのでしょうか?

*****引用はじめ*****
橿原考古学研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」
*****引用おわり*****(奈良新聞)

三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡を神聖視するのでしたら、国産鏡と同じところに埋葬されていること自体に疑問を感じないんでしょうか。

もし仮に、纒向が卑弥呼の居所で今回発見された三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が魏から送られたものであるならば、国産鏡と同時に見つかるのはおかしい。

『最高の王』を示すのであれば、送られた三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が同じ場所に全てが埋葬されているか、一枚ずつ各首長に配られたか、いずれかである。

普通に考えれば、纒向は後者の鏡を配布された方であり、だからこそ国産鏡と同じ場所に三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡が埋葬されているのである。

さらに言うならば、卑弥呼の死後、纒向周辺の豪族が四国の卑弥呼から送られた鏡を一箇所にまとめて畿内をひとつの勢力圏に仕立て上げる闘争を始めたから、桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)は築造年代が古墳前期なのである。

橿原考古学研究所の菅谷文則所長の推測はあまりにも暴論だし子供じみている。自分の地元を初期大和王権の発生地にしたいのはわかるが、完全に論理が破綻しているし、権力と肩書きを使っての憶測歴史学は尊敬に値しない行為である。


ちなみに邪馬台国は共和制なので『最高の王』などという概念は存在しません。まず歴史を研究するよりも自分の頭の中の皇国史観を廃することのほうが先決であると思います。卑弥呼は魏と通商を行い連合国家中から共立された民主主義的首長です。そこに帝国主義的『最高の王』が存在するわけないのです。あまりにも馬鹿げています。

邪馬台国と言いながら帝政ローマや、唐帝国、大日本帝国のような専制君主を卑弥呼にあてはめるのは妥当ではないと思います。前提そのものが間違っています。共和制が土地に染み付いた場所が卑弥呼の居所だったのです。遺跡を発掘せずとも日本史を少し勉強するだけで答えが出ます。

共和制復刻自由民権運動がどこから始まり、どのような勢力が帝政江戸幕府を終わらせたのか。簡単に答えは出ます。土地に染み付いたイデオロギーが簡単に変わるわけはありません。

邪馬台国纒向説を支持する人たちが卑弥呼を『最高の王』に仕立て上げようとすればするほど、邪馬台国自体から遠ざかっていくことに気付かねばなりません。

連合国家体制下で帝政を敷いたものなどいるのでしょうか?邪馬台国は完全な連合国家です。『最高の王』を主張するならば、むしろそれは狗那国であるでしょう。

いい加減、歴史を道具にして自分を癒すのはやめにしましょう!癒されたければヒーリングを受ければ良いだけのこと。



堂ノ後古墳、実は5世紀後半 奈良・桜井市教委が発掘調査 (さきがけWeb)

長年、国内最古の前方後円墳などと主張してきた堂ノ後古墳が学生のレーダ調査であっという間に存在意義が瓦解。こういうところには全く目を向けず、自分の都合のいいようにメディアと権力を使って纒向教を宣伝するのは百害あって一理なし。


ちなみに、古墳前期の築造とされるホケノ山古墳(ほけのやまこふん)『ウィキペディア(Wikipedia)』はホタテ型ですが、高知の卑弥呼の墓とされる古墳はイチョウ型です。



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戦後歴史学(纒向説)の狂気


昨日、纒向遺跡での新たな発見の特集をクローズアップ現代で放映していたのですが、めちゃくちゃな暴論が公共の電波を通して流れていましたので、訂正しておきたいと思います。


①本殿中央部に柱が建っている→出雲に同じものがある→部屋がいくつもに分けられ卑弥呼が祭祀を行っていた可能性が高い。

②卑弥呼は誰にも会わず、弟が世話をしていた(魏志倭人伝)→それを彷彿させる部屋のつくり→卑弥呼の居所に間違いがない。

③纒向に防衛機能(環濠)がない→この時代に地域がひとつになった王権が確立されたため。

④ほとんどの建物が天子南面の中国思想で建築されているにも関わらず発掘された建物は東に向いている→日本古来の太陽信仰に違いない(ひのみこの思想)
 

この4つが今回、発掘された建物を邪馬台国のものに仕立てあげたい人たちの根拠ですが、あまりにもお粗末過ぎます。

①に関しては、縄文時代から日本では心御柱の建築はありましたが、纒向で発見された建物の中央の柱跡はそういう思想を全く感じられない建物です。ゆえに祭祀の建物である可能性は低く、単なる食糧貯蔵庫であった可能性のほうが高いです。わざわざ出雲の建物を持ち出すまでもないことです。

②に関しては、それほど大きくはない建物がいくつにも区切られているからといって、それが卑弥呼の居所に間違いないとするならば、一体、卑弥呼は日本に何人いたんでしょうか?コントのネタではないのか(笑)


③に関しては、卑弥呼が亡くなった後は男王が立って、再び倭国大乱になりましたし、卑弥呼存命中も狗奴国と戦争状態にありましたから、環濠がないことを卑弥呼王権確立の根拠にするのは狂気地味ていると思います。

④に関しては、古代の太陽信仰を持ち出すならば、最も神聖視されていたのは、冬至の日に太陽が昇ってくる辰巳の方角です。この冬至の日を境に日が高くなり始めるので、太陽神復活の方角とされました。柚子は太陽を表しましたから、冬至の日に日本人は柚子風呂に入ります。柚子の発祥は土佐ですし、田村遺跡群ー土佐神社ー七ツ淵は辰巳ラインで一直線に並んでいます。



しかも、纒向遺跡は大きく見積もっても半径2kmほど文化圏です。それに引き換え高知県田村遺跡群周辺は少なくとも半径6kmの弥生大文化圏です。2重環濠も持ち、既に850棟も出土した田村遺跡が同時代に土佐に存在するのに、たった半径2kmしかない奈良の山奥の地に一体、誰が王権を作るというのでしょうか?あまりにも馬鹿げています。



少なくとも、2つが同時代に並存しているわけですから、朝鮮半島に近い土佐が政治的に進んでいた可能性は高いでしょう。権力闘争も鉄器作製も土佐は北九州と同程度か、それよりも早い段階で推移していたわけですから。


纒向=邪馬台国説はあまりにも狂気地味ているし、稚拙過ぎると思います。

 


邪馬台国纒向説という幻想


<奈良・纒向遺跡>3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か (毎日新聞)

おそろしく誤った知識が垂れ流されてますので、訂正しておきたいと思います。

まず、纒向遺跡は防衛機能を持っておらず、あったとしても一重の柵があっただけです。

同時代の九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)『ウィキペディア(Wikipedia)』は2重の環濠集落ですし、高知県の田村遺跡(ことバンク)も2重の環濠を持った集落群です。

倭国大乱を経験した王権の都が無防備な一重の柵などで造られるわけがありません。

*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****
2000年2月に高知県南国市で見つかった、全国で最大級の弥生時代の集落遺跡。約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物の計約850棟が確認された。三重の環濠や大量の土器やガラス玉、環状石斧(せきふ)を始め、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。北部九州より古い弥生土器もあるとされ、早くから発展し、盛期には「1000人規模の弥生都市だった」との見解も出されている。
( 天野幸弘朝日新聞記者/今井邦彦朝日新聞記者 )
*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****


それと吉野ヶ里遺跡は発掘当初は邪馬台国か!と期待されましたが、それほど多くの建物跡がでませんでしたので、それほど大規模なものではありません。

高知県の田村遺跡は既に約850棟の建物跡が確認されてますし、しかもこれは空港建設拡張にともなう調査なので、周辺部は、まだ手をつけてない状態でこの規模なのです。さらには人面獣身の土偶や神殿らしい建物が描かれた土器も見つかっていますので、田村遺跡が発掘された高知県香長平野のどこかに卑弥呼の居城跡(神殿)が見つかる可能性は高いです。


田村遺跡周辺部の遺跡を一部まとめますと

西野々遺跡(高知新聞)
弥生中期とみられる直径6メートル以下の小・中型の竪穴住居跡を46棟確認。東約1・5キロの田村遺跡群出土の土器と特徴が類似。高知県県西部で見つかる土器も交じっている。

介良野遺跡(高知新聞)
発掘されたのは弥生時代ごろの竪穴住居跡17棟や、大皿やつぼなど
弥生土器数千点のほか、石包丁1点、鉄やじり1点、磨石2点など

士島田(ししまだ)遺跡(高知新聞)
直径8~10メートルほどの円形竪穴住居跡8軒を含む計32軒が出土した。

伏原遺跡(高知新聞)
弥生時代後期末から古墳時代初頭(3世紀後半―4世紀前半)の五角形の竪穴住居跡を含む全12棟。同遺跡の周辺には20以上の古墳や遺跡が集中。四国最大の大型方墳「伏原大塚古墳」や、同時期の竪穴住居跡が見つかっている「ひびのきサウジ遺跡」などがあり、一帯に大規模集落が存在していた可能性があるという。

田村遺跡群が急速に拡大し最盛期を迎え,周辺部に新たなムラが作られていく時期にあたります。伏原遺跡もそのようなムラの一つではないでしょうか。(高知埋蔵文化財センター)

伏原遺跡が田村遺跡群より北東6-7kmの地点にあることから、田村遺跡群の勢力規模は半径5km以上に及んだ可能性が高く、上記の遺跡はその範囲内にあり、全て弥生後期の竪穴住居跡が出土していることから、広大な香長平野全てが田村遺跡群の勢力下にあった可能性があるのです。上記、伏原遺跡の見解は昨年出されたものであり、広大な香長平野は未だほとんどが優良農地で田園風景が広がっているため、国内で唯一、邪馬台国7万戸の竪穴住居跡を発掘できる可能性のある地域であると思います。




田村遺跡群の最終総論(高知埋蔵文化財センター調査報告書)
上記最終報告書内に記載されてますが、未だこの遺跡からは権力を意識させるような遺構が、出てきてないため、南四国の調査はここで終了にしたいとまで書かれてますが大きな疑問も呈されています。
『何故、出自の違うものが同一集落内に共棲できたのか、果ては共同体の構成とはどのようなものかと言った多くの疑問点に遡及してしまう。』と。

私もこれには同感であり、膨大な竪穴住居跡が発見されながら文化的統一性や権力の集中性が発見されないのは明らかにおかしいと言わざるを得ないと思います。

小規模なムラにしてもそのムラの決まりごとを決め、守っていくという集団のルールみたいなものが発生し、ムラの長が発生するはずですから(原始社会でもこれはそうです)、こと何千人規模の集落群から長のものと言える住居跡や装飾品が見つからない、あるいはその痕跡さえつかみどころにかける、というような出土状況なのです。


しかし、よく考えて頂きたいのは、この田村遺跡群と並ぶような形で存在する内湾対岸の居徳遺跡群(土佐市)からは、国内最古(縄文晩期)の戦傷人骨が出土しています。ということはですね、土佐では国内で最も早い段階で権力闘争が始まった可能性が高く、田村遺跡において権力統制が行われていないはずがないのです。


このことから導きだされるたったひとつの答えは、『権力者の神殿が香長平野のどこかに埋もれている』ということであり、現在発掘された田村遺跡群の散発的な竪穴住居跡は、権力者の居住区とは隔離された一般市民の自由居住区だったということになると思います。

現在発見されている小型(2,3m)の竪穴住居~大型(9,10m)の竪穴住居は、単に一般市民の中での生活水準の違いによるもので権力の強弱ではないということです。

五角形の竪穴住居跡が出た伏原遺跡よりさらに奥の物部川中流域には、武器庫を表す地名や、卑弥呼を連想させるような地名もありますから、そこから自由市民に支持される政治を行っていた可能性は、あると思います。

すなわち高知では、縄文晩期に権力の闘争が始まり、600-700年の熟成を経て、弥生後期には都市国家ポリスのようなものができていたということです。それが邪馬台国であり、田村遺跡を含む自由市民ネットワークなのです。紀元前5世紀頃と言えばオリエントではスパルタ・アテナイ・ペルシャ・マケドニアなどの時代であり、これらの都市国家の古代戦争を逃れた人たちが日本にやってきた可能性は高く、高知県居徳遺跡の戦傷人骨、そして田村遺跡の規模と土佐における宗教的遺産の集積度、それと『自由』に対する理解と希求度を考慮に入れると、都市国家ポリスが弥生後期に土佐で生まれていた可能性は非常に高いのです。

自由民権運動を起こしたイデオロギーが、土佐南学(山崎闇斎などを含む)にまで遡及できることが現在徐々に明らかにされており、戦国期の長宗我部の『一領具足』が古代の自由市民の再生である可能性もあるのです。


邪馬台国7万戸の首長の居城が、「南北19.2メートル、東西6.2メートル」(今回纒向遺跡で発見された建物跡)程度の建物であるわけがないのです。高知県田村遺跡で発掘された一般市民の竪穴住居の2倍ほどの規模しかないわけですから。


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