<奈良・纒向遺跡>3世紀前半の大型建物跡 邪馬台国か (毎日新聞)
おそろしく誤った知識が垂れ流されてますので、訂正しておきたいと思います。
まず、纒向遺跡は防衛機能を持っておらず、あったとしても一重の柵があっただけです。
同時代の九州の
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)『ウィキペディア(Wikipedia)』は2重の環濠集落ですし、高知県の
田村遺跡(ことバンク)も2重の環濠を持った集落群です。
倭国大乱を経験した王権の都が無防備な一重の柵などで造られるわけがありません。
*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****
2000年2月に高知県南国市で見つかった、全国で最大級の弥生時代の集落遺跡。約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物の計約850棟が確認された。三重の環濠や大量の土器やガラス玉、環状石斧(せきふ)を始め、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。北部九州より古い弥生土器もあるとされ、早くから発展し、盛期には「1000人規模の弥生都市だった」との見解も出されている。
( 天野幸弘朝日新聞記者/今井邦彦朝日新聞記者 )
*****ことバンク「田村遺跡」から引用*****
それと吉野ヶ里遺跡は発掘当初は邪馬台国か!と期待されましたが、それほど多くの建物跡がでませんでしたので、それほど大規模なものではありません。
高知県の田村遺跡は既に約850棟の建物跡が確認されてますし、しかもこれは空港建設拡張にともなう調査なので、周辺部は、まだ手をつけてない状態でこの規模なのです。さらには人面獣身の土偶や神殿らしい建物が描かれた土器も見つかっていますので、田村遺跡が発掘された高知県香長平野のどこかに卑弥呼の居城跡(神殿)が見つかる可能性は高いです。
田村遺跡周辺部の遺跡を一部まとめますと
西野々遺跡(高知新聞)
弥生中期とみられる直径6メートル以下の小・中型の竪穴住居跡を46棟確認。東約1・5キロの田村遺跡群出土の土器と特徴が類似。高知県県西部で見つかる土器も交じっている。
介良野遺跡(高知新聞)
発掘されたのは弥生時代ごろの竪穴住居跡17棟や、大皿やつぼなど
弥生土器数千点のほか、石包丁1点、鉄やじり1点、磨石2点など
士島田(ししまだ)遺跡(高知新聞)
直径8~10メートルほどの円形竪穴住居跡8軒を含む計32軒が出土した。
伏原遺跡(高知新聞)
弥生時代後期末から古墳時代初頭(3世紀後半―4世紀前半)の五角形の竪穴住居跡を含む全12棟。同遺跡の周辺には20以上の古墳や遺跡が集中。四国最大の大型方墳「伏原大塚古墳」や、同時期の竪穴住居跡が見つかっている「ひびのきサウジ遺跡」などがあり、一帯に大規模集落が存在していた可能性があるという。
田村遺跡群が急速に拡大し最盛期を迎え,周辺部に新たなムラが作られていく時期にあたります。伏原遺跡もそのようなムラの一つではないでしょうか。(高知埋蔵文化財センター)
伏原遺跡が田村遺跡群より北東6-7kmの地点にあることから、田村遺跡群の勢力規模は半径5km以上に及んだ可能性が高く、上記の遺跡はその範囲内にあり、全て弥生後期の竪穴住居跡が出土していることから、広大な香長平野全てが田村遺跡群の勢力下にあった可能性があるのです。上記、伏原遺跡の見解は昨年出されたものであり、広大な香長平野は未だほとんどが優良農地で田園風景が広がっているため、国内で唯一、邪馬台国7万戸の竪穴住居跡を発掘できる可能性のある地域であると思います。
田村遺跡群の最終総論(高知埋蔵文化財センター調査報告書)
上記最終報告書内に記載されてますが、未だこの遺跡からは権力を意識させるような遺構が、出てきてないため、南四国の調査はここで終了にしたいとまで書かれてますが大きな疑問も呈されています。
『何故、出自の違うものが同一集落内に共棲できたのか、果ては共同体の構成とはどのようなものかと言った多くの疑問点に遡及してしまう。』と。
私もこれには同感であり、膨大な竪穴住居跡が発見されながら文化的統一性や権力の集中性が発見されないのは明らかにおかしいと言わざるを得ないと思います。
小規模なムラにしてもそのムラの決まりごとを決め、守っていくという集団のルールみたいなものが発生し、ムラの長が発生するはずですから(原始社会でもこれはそうです)、こと何千人規模の集落群から長のものと言える住居跡や装飾品が見つからない、あるいはその痕跡さえつかみどころにかける、というような出土状況なのです。
しかし、よく考えて頂きたいのは、この田村遺跡群と並ぶような形で存在する内湾対岸の
居徳遺跡群(土佐市)からは、国内最古(縄文晩期)の戦傷人骨が出土しています。ということはですね、土佐では国内で最も早い段階で権力闘争が始まった可能性が高く、田村遺跡において権力統制が行われていないはずがないのです。
このことから導きだされるたったひとつの答えは、『権力者の神殿が香長平野のどこかに埋もれている』ということであり、現在発掘された田村遺跡群の散発的な竪穴住居跡は、権力者の居住区とは隔離された一般市民の自由居住区だったということになると思います。
現在発見されている小型(2,3m)の竪穴住居~大型(9,10m)の竪穴住居は、単に一般市民の中での生活水準の違いによるもので権力の強弱ではないということです。
五角形の竪穴住居跡が出た伏原遺跡よりさらに奥の物部川中流域には、武器庫を表す地名や、卑弥呼を連想させるような地名もありますから、そこから自由市民に支持される政治を行っていた可能性は、あると思います。
すなわち高知では、縄文晩期に権力の闘争が始まり、600-700年の熟成を経て、弥生後期には都市国家ポリスのようなものができていたということです。それが邪馬台国であり、田村遺跡を含む自由市民ネットワークなのです。紀元前5世紀頃と言えばオリエントではスパルタ・アテナイ・ペルシャ・マケドニアなどの時代であり、これらの都市国家の古代戦争を逃れた人たちが日本にやってきた可能性は高く、高知県居徳遺跡の戦傷人骨、そして田村遺跡の規模と土佐における宗教的遺産の集積度、それと『自由』に対する理解と希求度を考慮に入れると、都市国家ポリスが弥生後期に土佐で生まれていた可能性は非常に高いのです。
自由民権運動を起こしたイデオロギーが、土佐南学(山崎闇斎などを含む)にまで遡及できることが現在徐々に明らかにされており、戦国期の長宗我部の『一領具足』が古代の自由市民の再生である可能性もあるのです。
邪馬台国7万戸の首長の居城が、「南北19.2メートル、東西6.2メートル」(今回纒向遺跡で発見された建物跡)程度の建物であるわけがないのです。高知県田村遺跡で発掘された一般市民の竪穴住居の2倍ほどの規模しかないわけですから。
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