土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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私の最新の研究(?)から言いますと、古代の都は一時期、陰陽一対で運営されていたのではないかと考えています。
近つ飛鳥・遠つ飛鳥、近つ淡海・遠つ淡海などの言葉がその名残であり、近つ淡海を琵琶湖畔、遠つ淡海を土佐の古浦戸湾に設定すると、土佐の様々な不思議が急速に解決し始めるのです。
(本来、遠つ淡海はとうとうみとして浜名湖が設定されていますが)
土佐大津と近江大津は、子宮型祭祀、風神祭祀、三体妙見祭祀、タケル祭祀、祓戸信仰、小野氏つながり、アジスキタカヒコネつながり、食道楽つながり、天智天皇つながりなどで深い一致があります。
そしてその文明構造が最終的に京都に奪われた形になってクローズしているのも似ています。
律令・条里制の中央集権国家が完成される前は、おそらく子宮型祭祀・汽水域神聖視の天の川連合国体国家が選択されており、膨大な帆船をつなぎとめておく港が都のすぐ近くにあったようです。
風神と不二(過去記事)でも書きましたように、帆船をつなぎとめておく港は内湾であり、風待ちをして一気に帆船を進ませる地形がなければ都としては機能しなかったようです。
そのために風神が祀られていて龍田大社の級長戸辺命が国御柱神とされるのはこういう理由からではないかと思います。
しかし、龍田大社の創建は675年であり、それ以前に風神を祀る文化があったことは明白であり、風神祭祀をこの龍田大社起源にするのは、明らかな無理があるということになります。しかも龍田大社付近には古代内湾の痕跡もそれに伴う風待ちの文化の継承も見当たらないですし。
詳しくは刀と骨(Lemurian resonance)を参照