土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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昨日、秦氏の20進法 (Lemurian resonance)にも書きましたが、土佐国南西部に秦王国を作った秦氏たちは20進法を用いるマヤ文明のルーツとなった人たち。
マヤの聖数は20ともうひとつ13があります。マヤの暦のひとつであるツォルキン『ウィキペディア(Wikipedia)』は、13×20=260日で一年となります。
古代土佐には都左国と波多国の2つの国がありました。
この都左国と波多国を数字に直しますと
十三(トサ)×二十(ハタ)となります。これが大和であり邪馬台国であると以前からお伝えしています。
また、土佐には”はちきん”と呼ばれる言葉があります。これは男勝りの女性のことを意味し、ポジティブなイメージで捉えられる言葉です。八面と安曇 (Aquarius 安曇)で八面大王は八人の巫女のことで卑弥呼のことであると書きました。
土佐には三目八面(さんめやづら、みつめはちめん) 『ウィキペディア(Wikipedia)』があり、高知県物部村のいざなぎ流 『ウィキペディア(Wikipedia)』神事・日月祭にも八面王は登場します。八面王(やつらおう)神社跡 (四国のやまなみ)もあります。とも書きました。
故に、”はちきん”とは、八人の巫女を讃えた言葉でもあると考えられます。また、マヤの1日を表す言葉はキン(KIN)です。このキンは元々、太陽を表していたようです。このマヤのKINを使うと不思議と”はちきん”や邪馬台国の謎が解けていきます。
つまり”はちきん”とは八人の太陽であり、剣山から発掘されアメリカ軍に押収されている全身入れ墨の八人の太陽の姫巫女たちのことなのです。
これに対して土佐の日本人離れした変骨者は”いごっそう『ウィキペディア(Wikipedia)』”と呼ばれます。男性を指す言葉、そして彦の響きが隠れていること。一五十とも書けることから、五と深い関わりがあり、日子とも関わりがあると思います。つまり五男三女の五男であり、五は男を表します。土佐には五男筆頭延喜式内社・天忍穂耳の天忍穂別神社もありますし、若一王子神社が異様に多いです。
彦(五)+媛(八)で13(土佐)ということになります。しかし、これは土佐に限ったことではなく、北九州にも英彦山と八面山のセットがあります。青森県にも十三湊(とさみなと)があるように土佐は高知県の固有名詞ではなく、全国的に使用された言葉であると思います。
土から生まれ土に還る 記事で土佐における四神の配置とバビロニアのことについてざっと書きましたが、特に西の日(火)の神付近とバビロニアに関連することについて、詳しく。
土佐の四神のうち西の日(火)の神は、巨大な獅子岩をその原初信仰としており、これが後に牛頭天王に変わり、潮江天満宮(日本初の天満宮)へと変遷していきました。
詳しくは→天満宮と北極星(Lemurian resonance)を参照
西の日(火)の神付近は、北の台地から西側のピラミッド型の山をぐるっと回って龍馬も遊んだ鏡川という川が内湾に注ぎ込む河口になっています。
この鏡川の最上流部に七ツ淵(七ツ淵神社もあり)という地があります。1週間を7日(七曜)にしたのはシュメール人といわれます。七曜に関しても 土から生まれ土に還る 記事で密教伝播以前に日本に入ってきていた可能性が高いと指摘しました。
シュメール人は龍が春に出てきて秋に入っていくと考えていました。どこから出てきてどこへ還っていくかというと”淵”です。土佐には七ツ淵神社以外にも深淵神社(玄松子さん)という延喜式内社もあります。深淵水夜禮花命を祀っているのは全国で唯一、この神社だけです。この他にも地の底まで続くような地割れが史跡となっているところもあります。
この七ツ淵付近を源流とする鏡川は龍神の川と言われており、金属器を投げ入れると祟りがあると信じられていて、実際にばちが当たった人もいます。この鏡川が鴻ノ森というピラミッド型の山を経由し、南の内湾・浦戸湾に注いでいるのです。
その途中に斉明天皇崩御地の朝倉があります。この朝倉神社の祭神は天津羽羽神、つまりは龍神です。それで、最終地点・潮江(牛尾江)に獅子が待ち構えているのです。
バビロン『ウィキペディア(Wikipedia)』の主要な大通りの行列道路は舗装され両側の壁は神々の象徴であるライオンや竜ムシュフシュの像で飾られていました。
また、この潮江山頂の巨石からは金星が非常に美しく見え、イシュタルと雄牛もまた潮江の巨石でつながるのである。なぜ菅原道真の長男・菅原高視『ウィキペディア(Wikipedia)』が土佐の国衙とは、ほど遠い潮江の地に住み、そこで道真の遺物を受け取ったかが上記の理由をもって説明できる。
上古、私たち日本人の文明は非常にオリエントの文明と直結したものでありましたが、鎌倉・室町・戦国期を通じて、特に江戸時代を通じて余分なものはそぎ落とされ、明治期の皇国史観で完全にシャットアウトされたのだと感じます。
これからは、皇国史観を拝し、世界の民族と宗教が融合した多民族国家としての大和を私たちのアイデンティティーとして取り戻していく必要があるでしょう。
日本神話の神世七代『ウィキペディア(Wikipedia)』は、おそらくは七曜であり、一般的に曜日『ウィキペディア(Wikipedia)』が密教によってもたらされたというのは間違いであると思います。
おそらくは初期大和王権つまり邪馬台国にはミトラが入ってきており、第六天の土(泥)が神聖視された痕跡があります。この信仰は日本においては古墳時代を通じて埴輪として表現されましたが、その後急速に衰えていきます。(つまり古代バビロニアの思想がなんらかの宗教の形をとって紀元前後には既に入ってきていたということになります)
イスラム教ではアズラエルがアダムを創ったともされ、アズラエルは土の神なので、神世七代とは恐ろしく一致します。キリスト教では後の異端排斥で死を連想させるもの(死ねば土に還る)を全て追放しましたので、土の思想が失われ、土=悪=サタンとして定着しました。(ここにイスラム教とキリスト教の対立の根源があるでしょう)
しかし、古代ローマのサトゥルナリア祭で大地(土)の神サトゥルヌスを祝っていたように、土=悪=サタンの考え方は、キリスト教が求心力を強めていく中で醸成されていった社会通念であったことがわかります。
神世七代の時代こそ、まさに初期大和王権の時代であり、このブログでも紹介したような汽水域を神聖視する第六天信仰全盛の時代であったのです。これが土佐の『土』と密接に関わっているのです。
土=悪=サタンのキリスト教思想が日本に伝来するとともに土佐封じ込めの思想が完成され、国譲りの神話が構築されたんですね。
ということは日本人こそ、イスラム教とキリスト教の問題を客観視できるわけであり、両者を和解させる思想を持っているということになります。
キリスト教の問題は、異端を生み出すことによってサタンを悪とみなし、それをイスラム教とみなしてきたことに問題があり、イスラム教の問題は、文明を奪われた憎しみと十字軍の記憶が絶対神を生み出していることに問題があり、本来は両者はひとつであり、土(土曜日)の思想を取り戻せばひとつになることができるのです。
土佐一之宮のシナネ様は風の女神で、東の水神、南の土神、西の日神とセットで認識されます。それに雲をかけることによって風を吹かせないようにするメタファーが『出雲』の語源になっています。
北の風の女神は、675年に草薙剣を献上させられ
東の水神は、浅間信仰の勧請とされてますが本質がまるで違う三体妙見ですし
西の日(火)の神は、東に向かってスフィンクスのように咆哮する日本初の天満宮ですし
南の土の神は、真の三位一体信仰を伝承する石土(いわつち)神社ですし
これら四神に囲まれた中央の内湾には古代、四国の2大山である剣山と石鎚山から川が流れ込んでいたのです。そしてその形は子宮型であり、その中央部に潮満珠を連想させる神功皇后伝説の玉島が浮かんでいるのです。
しかも東の水神付近の平野は、弥生後期に爆発的に人口が増えた痕跡があり、田村遺跡群などは弥生後期では最大の規模を誇る大きさの遺跡です。しかもこれは空港建設に伴う一部を掘り起こしただけに過ぎず、周辺部の散発的な遺跡と統合・分析すると、とてつもない巨大遺跡が浮上してくるのです。
戦国期の天下統一の推移を見ましても、日本全土を掌握するような首都が日本海側にできるなんてことは、地政学的に見て不可能であり、黒潮を掌握していた集団が古大和王権の母体であったことは確実であると思います。
また、瀬戸内の制海権を掌握できない畿内が単独で王権を確立するなんていうこともほぼ不可能で(後年、藤原純友の乱でそれが証明されている)、畿内への王権委譲には四国瀬戸内の勢力が絡んでいることはほぼ確実だろうと思われます。
滋賀県に志那神社という神社があります。
シナというだけに風神を祀っていますが、その名や地形、そしてなにより近江富士(三上山)との配置が、土佐における志那禰神社(土佐神社)と介良富士(介良山)との文化構造の合致を感じさせます。
しかも、その北側は大津であり、紀貫之が出港した大港でもありました。
詳しい説明は過去記事を後々リンクさせてもらいますが、ここで述べたい事は
おそらく風神と三体妙見、そして不二信仰は密接に関わっており
それが天智朝で国のマツリゴトの根本に据えられていたということです。
『土佐物語』には具体的に、斉明天皇が朝鮮半島に出兵する直前のことが記載されていますが、そこに同行した天智天皇と天武天皇のことも書かれています。
土佐と近畿の古代を追っていきますと、壬申の乱と呼ばれるものは血統の争奪戦ではなく、根本祭祀を決定する地形の争奪戦であったように思います。
浦戸湾(土佐)も琵琶湖も、子宮型祭祀なんですけれども、湖東では山神の発する水源を近江と美濃が、そして湖西では近江と山城が争った痕跡が残っています。
この時代の根本祭祀は、戦争とも深く関わっており、帆船をスムーズに航行させる充分な水量と風量を確保するためには、子宮型の内湾と、水を常時放出する山々、そして風待ちをして一気に帆船を出港させる鈎型の港が必要でした。
それは人間の内部を浄化する祓戸四神とも深く関わっていましたが、白村江の戦いで敗北したことによって国内の民衆や豪族に動揺と不安が広がったのかもしれません。(唐による征服説もあり得ます)
変な木 - 嶋宮神社(南国土佐へ来てみいや)
ついに三体妙見の原初形態を見つけました、という感じです。
ドラゴンアナスタの聖地巡礼活動の最終局面で非常に気になっていた三体妙見
おそらく、この三体妙見の信仰は、邪馬台国、すなわち初期大和王権の根本的な宗教認識だったのではないかと感じています。
なぜなら、三体妙見の中心に据えられるのは、コノハナサクヤ姫でありイチキ島姫です。日本神話の中では、磐長姫はコノハナサクヤ姫に実権を奪われた前王朝の象徴のような存在ですが、三体妙見信仰内における磐長姫とコノハナサクヤ姫は共存しています。
つまり、コノハナを裂いて生まれてくるコノハナサクヤ姫は、山においては岩を裂き、海においては海面を裂くわけです。それが水(川)であり土(島)であるわけですけれども、いずれの場合も磐長姫が、隣に存在します。
しかも、一番上で紹介した三体妙見の島とされるうちのひとつは、玉島と言って、神功皇后と白い石の記述が釈日本紀にあります。
神 功 皇 后 と 玉 島(土佐の伝説)
この他にも、様々な深いメタファーが高知に存在しますので、掘り返す必要がある時代に入ってきたと感じています。
レムリアンリゾナンスにおける活動(政治的活動・経済構造転換活動・市民活動)なども、新たな局面に突入しており、そこにユーラシア大同団結のシラヤマリアの思想が結合しそうなので、このブログを構築することとなりました。
私だけでなく、かなり多くの方が新たな局面に入られて新たな出逢い(化学反応)をされているようなので、是非、皆さんも色々とご交流されてください。
スピリチュアルと歴史が入り乱れた古代史談義というものを、ものすごく深いレベルで語れる市民活動の拠点をご用意できつつあるので、Webの世界を抜け出し、実際にお会いしてこのような話をできることを楽しみにしております。
Webでは既に皆さん、かなり追求されてますので、今度はそれをリアルなレベルに落とし込みつつ、議論・融合できれば楽しいかなと思います。
そのような場の提供や企画の案内もこのブログで行っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。