土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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一般的に弥生時代の鉄器は北部九州に前期に持ち込まれ、後期以降に西日本各地に持ち込まれたとされていますが、高知県土佐市新居の上ノ村遺跡からは、弥生時代中期末の円形の竪穴遺構から鉄製品約170点が出土しており、遺構の周辺も合わせると計約250点となる。砥石も出土しており鉄製品の加工をしていたと見られ、この事例は従来の弥生感を覆している。
日本海側の妻木晩田遺跡からは200点以上の鉄器が出土していますが、これは弥生後期のものであり、従来の弥生感の範疇に入るものです。
同じ日本海側の荒神谷遺跡『ウィキペディア(Wikipedia)』から大量の銅剣が出土しておりますが、弥生時代中期後半に製作されたものであり、それと同じ時期に太平洋側の土佐では鉄器が既に製作されていたわけであります。
鉄器生産を行っただろうとされる弥生の鍛冶遺構をまとめてみます。(古い順)
重留遺跡(福岡県)弥生時代中期~後期?
3基の炉跡
上ノ村遺跡(高知県)弥生時代中期末(1世紀初め)
鉄製品約250点。砥石(といし)も見つかっていることから鉄製品の加工拠点だった可能性が高い。
垣内遺跡(兵庫県)弥生時代後期
鉄片など計75点。鍛冶(かじ)工房跡計10カ所
庄遺跡(徳島県)弥生時代後期
鉄の残片など約50点や鉄やじり2点
鉄器の形を整えたり、研いだりするために使った鉄床石(かなとこいし)兼砥石(といし)十数点
現段階では上ノ村遺跡からは炉が出土していないため、断言はされてませんが、高知県の鉄器製作は福岡と同時期に始まっており、居徳遺跡の戦傷人骨を含めると(上ノ村遺跡は居徳遺跡のすぐ南)やはり少なくとも縄文晩期から北部九州と同じスピードでユーラシアの文明がもたらされた可能性が高いのです。
なぜそういうことが起こるかというと、弥生時代の早い段階で邪馬台国と北の一大卒という枠組みが出来始めていたということです。なぜそうなのかというと高知県中心部の子宮祭祀型の地形が、様々な人種と文明を引き寄せていたということになります。
しかも高知県中心部は銅矛文化圏と銅鐸文化圏の交わる境界線でもあり東日本と西日本の文明をつなぐ首都機能を持った都市であったことが推測できます。なぜなら邪馬台国の根本原理は多民族・多宗教の共和制連合国家であり、弥生時代後期の銅矛・銅鐸文化圏が交わらないところはその必要条件を満たさないわけであり、その条件を満たすのが唯一、四国の中心部であるのです。
下記に居徳遺跡・上ノ村遺跡・田村遺跡の連続性を示します。
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居徳遺跡(縄文晩期)→国内最古の戦傷人骨→権力闘争始まる
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上ノ村遺跡(弥生時代中期末)→鉄製品約250点
→弥生文化の一部が北部九州よりも早い段階で土佐に伝播していたことを考えると鉄器伝播ももっと遡る可能性がある。権力闘争が一段落し、鉄器を媒介とした王権が発生し始めた可能性がある。
↓
田村遺跡(弥生後期)→約850棟の建物跡・半径6ー7kmが同じ文化圏にある。周辺部の遺跡が密接に関わっており王権ができるとともに自由市民が発生した痕跡がある。
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