土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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古代ローマが実質的に帝政に移行したのは、285年のことです。これ以降専制君主制が始まり、ローマ帝国と呼ばれるものになっていきました。
同じ時期に日本で何が起こっていたかというと『卑弥呼の死』→『男王立ったが世乱れる』→『台与の擁立』です。
古代ローマ『ウィキペディア(Wikipedia)』の帝国という意味には「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味もあったらしく、土佐人の内奥の哲学と激しく一致するのです。このブログの題名ともなっています。
また、これは邪馬台国の連合国家形態と同じであり、ユーラシアの東の国・ジパングで共和制の女王卑弥呼が亡くなったことと、ユーラシアの西の地中海で共和制が終焉し、帝政が始まったことは非常に大きなメタファーが横たわっていると思うのです。
邪馬台国と倭国の主導権を争った南の狗奴国はおそらく帝政を選択しており、強大な軍事国家であったと思います。
邪馬台国が魏との貿易も行う国際貿易体制連合国家であったのに反して、狗奴国は帝政ローマの思想や中国・呉とも結びつく大まかに鎖国主義の帝政国家であったと思われます。
日本神話に記される国譲りはおそらく共和制から帝政への移行であり、それが軍事力をともなって行使されなかったはずはなく、しかし、帝政は共和制時代の文化をそのまま継承したという痕跡が土佐には残っているのです。
この構図というのは壬申の乱時代にも繰り返されており、共和制・天智天皇朝→帝政・天武天皇朝の国譲りでも土佐は草薙の剣とも思われる三種の神器を献上させられているのです。
詳しくは→刀と骨(Lemurian resonance)を参照
このように日本史とは、共和制と帝政のせめぎあいの歴史であり、幕末に坂本龍馬が大政奉還を実現し、明治期に土佐から自由民権運動が展開され、共和制が目指されたのは単なる偶然ではありません。
戦国期の土佐の武将・長宗我部氏の兵農一致の『一領具足』は、1兵卒が軍略会議に参加し発言していた日本で唯一の例ですので、土佐の共和制のルーツは、はるか古代にまで遡ることができるのです。
この文化的側面の考察と田村遺跡・居徳遺跡発掘の状況、神社史などの考察を合わせますと、土佐邪馬台国共和制というものがはっきりとした形で見えてくるのです。
自由民権運動の時に激震地にさえならなかった畿内が共和制邪馬台国の中心であるはずもなく、ましてや初期大和王権の発生地であるわけもないのです。
大和という言葉は、様々な民族が大同団結しひとつのクニ(六合=天・地・東・西・南・北)を造ったという哲学であるので、明らかにこれはローマの共和制と同じなのです。
アテナイの市民がアゴラに集まって開いていた民会『ウィキペディア(Wikipedia)』と同じ文化が土佐には残っています。『おきゃく』という文化ですが、老若男女が一同に会し、政治や経済のことなどについて酒を飲みながら熱く語ります。
これは日本の他地域には見られない非常に珍しい文化で、酒を飲んで顔を真っ赤にしながら政治のことについてじいさん・ばあさん・大人・子供が議論し合うのは、やはり日本離れしていると思います。
この民会の中から『はちきん』と呼ばれる男勝りな女性が生み出されてくるのです。結局、これが楠瀬喜多(すのせ きた)のような政治的男勝り女性を生み出していくわけですが、これが神功皇后の系譜とも言って良いと思います。
つまり神功皇后がなぜあれほどまでに政治的で負けん気が強いのか?これについて書かれたものはあまり見ません。日本書紀が捏造であったとしても神功皇后の性格は当時の女王の性格を投影している可能性が高いと言えます。それが何から生まれるかと言えば、単に生まれつきなどではなく、幼少の頃から民会のような場所で政治談義にふけっていた可能性もあるのです。
民衆を統率して朝鮮半島に出兵するのですから、それなりの軍事的戦略・政治的統率力・民衆を魅了する教養がなければならないと思います。
そういう女性が生まれる文化的素地が未だに土佐には残っているのです。