土佐で興った初期大和王権の国家構造を様々な角度から論証していきます。
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滋賀県に志那神社という神社があります。
シナというだけに風神を祀っていますが、その名や地形、そしてなにより近江富士(三上山)との配置が、土佐における志那禰神社(土佐神社)と介良富士(介良山)との文化構造の合致を感じさせます。
しかも、その北側は大津であり、紀貫之が出港した大港でもありました。
詳しい説明は過去記事を後々リンクさせてもらいますが、ここで述べたい事は
おそらく風神と三体妙見、そして不二信仰は密接に関わっており
それが天智朝で国のマツリゴトの根本に据えられていたということです。
『土佐物語』には具体的に、斉明天皇が朝鮮半島に出兵する直前のことが記載されていますが、そこに同行した天智天皇と天武天皇のことも書かれています。
土佐と近畿の古代を追っていきますと、壬申の乱と呼ばれるものは血統の争奪戦ではなく、根本祭祀を決定する地形の争奪戦であったように思います。
浦戸湾(土佐)も琵琶湖も、子宮型祭祀なんですけれども、湖東では山神の発する水源を近江と美濃が、そして湖西では近江と山城が争った痕跡が残っています。
この時代の根本祭祀は、戦争とも深く関わっており、帆船をスムーズに航行させる充分な水量と風量を確保するためには、子宮型の内湾と、水を常時放出する山々、そして風待ちをして一気に帆船を出港させる鈎型の港が必要でした。
それは人間の内部を浄化する祓戸四神とも深く関わっていましたが、白村江の戦いで敗北したことによって国内の民衆や豪族に動揺と不安が広がったのかもしれません。(唐による征服説もあり得ます)
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